チリのクーデター

概要
選挙で選ばれた社会主義政権が軍に倒された。冷戦下で外国の関与もあった。
場所
-33.45°N -70.67°E · チリ
関わった人(1)
パブロ・ネルーダAD1904年7月12日–AD1973年9月23日 · 12日後に死ぬ本文
1973年9月11日、南米チリで軍がクーデターを起こし、大統領サルバドール・アジェンデの政府を倒した。選挙で選ばれた社会主義の政府が、銃で終わらされた。
チリは、南米のなかでは珍しく、軍が政治に口を出さず、選挙で政権が替わる伝統を長く保ってきた国だった。1970年の大統領選挙で、社会党のアジェンデが、共産党などと組んだ「人民連合」の候補として、36%あまりの票で一位になった。過半数に届かなかったため、議会の決選で大統領に選ばれた。革命ではなく、選挙で社会主義を実現する。世界の注目を集めた実験だった。
アメリカは、この政権の誕生を強く警戒した。キューバ革命から10年あまり、南米にもう一つの社会主義の国ができることを恐れた。ニクソン大統領は、アジェンデの就任を阻むよう情報機関に命じた。そのときの会議のメモには、チリの経済に悲鳴を上げさせろ、という言葉が残っている。就任を阻もうとした工作の中で、軍のトップだったシュナイダー将軍が誘拐されかけて殺される事件も起きた。これらは後にアメリカの議会の調査と、公開された政府の文書で確かめられている。国家安全保障担当の補佐官だったヘンリー・キッシンジャーも、この政策の中心にいた。

アジェンデは、公約を急いで進めた。チリの最大の輸出品である銅の鉱山を国有化した。この国有化は、野党も含めて議会の全会一致で決まっている。アメリカ企業が持っていた鉱山だった。大きな農場を分けて農民に渡す土地改革を進め、銀行や大企業も国のものにした。最初の年は、賃金が上がり、景気も良かった。
だが、まもなく経済が崩れはじめた。政府は足りないお金を刷って補い、物価が急に上がった。1973年には、物価の上がり方は年に数百%に達した。店から品物が消え、闇市が広がり、人々は行列に並んだ。銅の値段が下がり、アメリカは国際的な融資を止めさせた。1972年と1973年には、トラックの運送業者が大規模なストライキを起こし、物の流れが止まった。アメリカはそのストライキや反政府の新聞にも資金を出していた。国は、政府を支持する人々と反対する人々に、真っ二つに割れていった。

1973年6月、一部の部隊が反乱を起こしたが、鎮められた。8月、議会の下院が、政府が憲法を破っているとする決議を出した。政府に忠実だった陸軍のプラッツ総司令官は辞任に追い込まれ、後任にアウグスト・ピノチェトが就いた。それから3週間後のことだった。
9月11日の朝、海軍が港町バルパライソを押さえ、陸海空の三軍と警察がそろって大統領の辞任を求めた。アジェンデは首都サンティアゴの大統領府に入り、降伏を拒んだ。ラジオで国民に最後の演説を行い、自分は辞めない、歴史は私たちのものだ、と語った。昼ごろ、空軍の戦闘機が大統領府にロケット弾を撃ち込んだ。午後、アジェンデは大統領府の中で死んだ。自ら命を絶ったとされ、2011年の再調査でもそう結論づけられている。

軍は議会を閉じ、政党を禁じ、首都の国立競技場を収容所に変えた。左派の人々が次々に捕らえられた。歌手のビクトル・ハラは、拘束されたあと殺された。ノーベル賞詩人のパブロ・ネルーダは、アジェンデの友人だったが、クーデターの12日後に病院で死んだ。死因はがんとされてきたが、毒殺の疑いが指摘され、いまも調べが続いている。
ピノチェトの独裁は、1990年まで17年続いた。後の政府の調査委員会は、殺されたり行方不明になったりした人を3000人あまり、拷問などを受けた人を数万人と認定している。多くの人が国外へ逃れた。南米のほかの軍事政権と組んで、国外へ逃れた反対派を追う作戦まで行われた。

一方で、ピノチェトの政府は、アメリカのシカゴ大学で学んだ経済学者たちを登用した。「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれる。国営企業を売り、関税を下げ、年金を民営化するなど、市場にまかせる改革を、ほかの国に先がけて急激に進めた。1980年代の初めには深刻な不況にも見舞われたが、その後、チリは南米で最も安定した成長を続ける国の一つになった。この改革の成果をどう評価するかは、それが独裁のもとで行われたこととあわせて、いまも議論が分かれている。
1988年、ピノチェトの続投を問う国民投票で、「ノー」が勝った。1990年に民政に戻り、ピノチェトは1998年、滞在中のロンドンで、スペインの裁判所の求めによって逮捕された。裁かれることなく、2006年に死んだ。

チリで9月11日といえば、2001年のアメリカの同時多発テロより先に、この日を思い浮かべる人が多い。