ベトナム戦争

概要
大国が撤退に追い込まれた。テレビが戦場を茶の間に届け、世論が戦争を左右するようになる。
場所
20.92°N 106.75°E · ベトナム北部
本文
大国が、小さな国との戦争で撤退に追い込まれた。それも、戦場で決定的に負けたからではなく、自分の国の世論が戦争を続けることを許さなくなったからだった。
始まりは、フランスの植民地支配にさかのぼる。ベトナムは19世紀後半からフランス領インドシナの一部だった。第二次世界大戦の末期に日本が退くと、1945年9月、ホー・チ・ミンがハノイでベトナム民主共和国の独立宣言を読み上げた。戻ってきたフランスとのあいだで戦争になり、1954年のディエンビエンフーの戦いでフランス軍が降伏する。同じ年のジュネーヴ協定で、ベトナムは北緯17度線で暫定的に南北に分けられ、2年後に統一選挙を行うことになった。
選挙は行われなかった。ホー・チ・ミンが勝つと見られていたからである。1955年、南ではゴ・ディン・ジエムがベトナム共和国を立て、アメリカがこれを支えた。一つの国が共産主義になれば隣国も次々に倒れる、という「ドミノ理論」が、物語「冷戦」のさなかのアメリカの判断を縛っていた。1960年には南で南ベトナム解放民族戦線が結成され、北の支援を受けてゲリラ戦を広げていく。
ジョン・F・ケネディの政権は、軍事顧問の名目で兵を増やし、1963年末には1万6千人ほどになっていた。ジエム政権は仏教徒を弾圧し、1963年6月、サイゴンの路上で老僧ティック・クアン・ドックが抗議の焼身をした。その写真が世界に流れ、同じ年の11月、アメリカが黙認したクーデターでジエムは殺される。その3週間後、ケネディ自身が暗殺された。
後を継いだジョンソン大統領のもとで、戦争は本格化する。1964年8月のトンキン湾事件で、北ベトナムの魚雷艇がアメリカの駆逐艦を攻撃したとされ、議会は大統領に武力行使の広い権限を与えた。二度目とされた攻撃は実際には無かった可能性が高いことが、後に明らかになっている。1965年3月、北ベトナムへの継続的な爆撃が始まり、同じ月に海兵隊がダナンに上陸した。派兵は年ごとに増え、1969年には50万人を超えて最大になった。韓国、オーストラリアなども兵を送っている。

それでも勝てなかった。理由として、いくつかが挙げられる。相手にとってこれは独立と統一のための戦争で、農村に支持があった。補給はラオスやカンボジアの山中を通る「ホーチミン・ルート」で続けられ、爆撃しても断ち切れなかった。アメリカの側は、どうなれば勝ちなのかという目的が最後まではっきりしなかった。敵の死者の数を戦果として数える方式は、民間人の犠牲を増やし、農民を敵の側へ押しやった。インドシナ全体に落とされた爆弾は、第二次世界大戦で全戦域に使われた量を上回ったとされる。ジャングルを枯らすために枯葉剤がまかれ、その健康被害はいまも続いている。
1968年1月のテト攻勢が転機になった。旧正月の休戦の時期に、解放戦線と北ベトナム軍が南の主要都市を一斉に襲い、サイゴンではアメリカ大使館の敷地にまで突入した。軍事的には攻めた側が大きな損害を出して押し返されたが、勝利は近いと言い続けてきた政府の説明は信用を失った。3月末、ジョンソンは再選に出馬しないと表明する。

テレビが、戦場を茶の間に届けた。夕食の時間に、負傷兵や焼かれた村の映像が流れた。1968年3月に南ベトナムのソンミ村(ミライ)で米軍部隊が数百人の村人を殺した事件は、1969年11月に報道されて大きな衝撃を与えた。1972年6月、ナパーム弾を浴びて服が焼け落ち、裸で道を逃げてくる少女の写真が世界中に配信された。もっとも、テレビが世論を変えたという通説には、報道は世論が変わった後を追ったにすぎない、という研究者の反論もある。
国内では反戦運動が広がった。若者が徴兵カードを燃やし、ボクシング王者モハメド・アリは1967年に徴兵を拒んでタイトルを剥奪された。キング牧師も戦争を公然と批判した。1970年、ニクソン政権がカンボジアへ侵攻すると抗議が全国の大学に広がり、オハイオ州のケント州立大学では州兵の発砲で学生4人が死んだ。1971年には、政府が戦争の見通しについて国民を欺いてきたことを示す国防総省の秘密報告書が新聞に載った。

リチャード・ニクソンは、地上の戦いを南ベトナム軍に引き継がせる「ベトナム化」を掲げ、兵を減らしながら交渉を進めた。1973年1月にパリ和平協定が結ばれ、3月にアメリカ軍の撤退が終わる。南北の戦いはその後も続き、1975年4月30日、北の戦車がサイゴンの大統領官邸の門を破った。サイゴン陥落である。翌1976年、南北は統一された。
アメリカ側の戦死者は約5万8千人で、首都ワシントンの記念碑の黒い壁に、その名がすべて刻まれている。ベトナム側の死者は推計の幅が大きく、ベトナム政府は1995年に軍民あわせて約300万人と発表した。戦後も混乱は続き、共産化を逃れて小舟で海へ出た「ボートピープル」の多くが海で命を落とした。隣のカンボジアでは、戦争の混乱の中から権力を握った勢力が自国民の大量殺戮を行う。

アメリカは戦争の後、徴兵制をやめて志願制に移り、大統領が議会の承認なしに長く兵を送ることを制限する法律を作った。以後、アメリカが海外で戦うたびに、それが「もう一つのベトナム」にならないかが問われる。勝てるかどうかと同じくらい、国民が支持し続けるかどうかが戦争を左右する。その状況が、ここではっきりと現れた。