できごと

U2撃墜事件

U-2 incident
AD1960年5月1日
重要度 4
ソビエト連邦中国インドモンゴルサウジアラビアイランリビアチベットエジプトパキスタントルコスウェーデンノルウェーアフガニスタンフィンランドイラクポーランドイタリアYugoslaviaルーマニアシリアCzechoslovakiaブルガリアギリシャハンガリーヨルダンAD1960年5月1日スヴェルドロフスク(エカテリンブルク)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1960年5月1日の版図を描いています(26勢力)。

概要

アメリカの偵察機がウラルの上でミサイルで落ちた。アイゼンハワーは「気象観測機」と言い、フルシチョフは操縦士パワーズと写真を出した。2週間後のパリの首脳会談は初日に壊れた。パワーズは1962年にベルリンの橋でソ連のスパイと交換された。

場所

スヴェルドロフスク(エカテリンブルク)
56.84°N 60.61°E · ロシア

本文

1950年代の半ば、アメリカはソ連の中で何が起きているのかをほとんど知らなかった。ソ連はどれだけの爆撃機とミサイルを持っているのか。閉ざされた国の奥を見るため、アメリカの中央情報局(CIA)は、ロッキード社に特別な偵察機を作らせた。U2である。グライダーのように長い翼を持ち、高度2万メートルを超える空を何千キロも飛び続けられる。当時のソ連の戦闘機もミサイルも、その高さには届かないと考えられていた。

1956年7月、U2は初めてソ連の上空を飛んだ。ソ連のレーダーは侵入をとらえていたが、撃ち落とす手段が無かった。ニキータ・フルシチョフは抗議したくても、自分たちが手も足も出ないことを認めることになるため、公には黙っていた。4年の間に、U2は20回あまりソ連の上を飛び、軍の基地やミサイルの発射場、核の施設を写した。写真からは、ソ連のミサイルの数がアメリカで恐れられていたよりずっと少ないことが分かってきた。

同型の偵察機U-2
同型の偵察機U-2Wikimedia Commons United States Department of the Air Force · Public domain

1960年5月1日、メーデーの朝、パキスタンのペシャーワルから1機のU2が飛び立った。ソ連の南から北へ国土を縦断し、ノルウェーのボードーに降りる計画だった。操縦していたのは、空軍を離れてCIAに雇われた30歳のフランシス・ゲーリー・パワーズである。ウラル山脈の工業都市スヴェルドロフスクの近くで、ソ連が新たに配備した地対空ミサイルが次々に撃ち上げられた。そのうちの一発が機体の近くで炸裂し、U2は翼を損なって落ちていった。パワーズは機体から脱出してパラシュートで降り、畑で農民たちに取り押さえられた。機体を壊す爆薬の装置は作動させられず、渡されていた毒の針も使わなかった。混乱の中で、迎撃に上がったソ連の戦闘機1機も味方のミサイルで撃ち落とされ、操縦士が死んでいる。

アメリカは、パイロットは死に、機体も燃え尽きたと思い込んでいた。5月5日、フルシチョフが、ソ連の領空でアメリカの飛行機を撃ち落としたと発表すると、アメリカ政府は用意していた筋書きを発表した。トルコの基地から飛んだ航空宇宙局(NASA)の気象観測機が、操縦士の酸素の故障で迷い込んだのだろう、というものである。フルシチョフはそれを待っていた。5月7日、彼は、操縦士は生きていて、こちらにいる、機体の残骸も、彼が写した軍の施設の写真もある、と明かした。アメリカは嘘をついたことを世界の前で暴かれた。アイゼンハワー大統領は、知らなかったと言い逃れることもできたが、5月11日、偵察飛行は自分が承認したものだと認めた。

撃墜されたU-2の残骸
撃墜されたU-2の残骸Wikimedia Commons Mikko Tapio Vartiainen · CC BY 2.5

その5日後の5月16日、パリで、アメリカ、ソ連、イギリス、フランスの首脳会談が始まることになっていた。冷戦の緊張をやわらげる場として期待されていた会談である。フルシチョフは冒頭、アメリカが謝罪し、偵察をやめ、責任者を罰することを求めた。アイゼンハワーは、偵察飛行をやめることは約束したが、謝罪は拒んだ。フルシチョフは席を立ち、会談は実質的な話し合いに入らないまま崩れた。予定されていたアイゼンハワーのソ連訪問も取りやめになった。

8月、モスクワで公開の裁判が開かれ、パワーズは罪を認めて謝罪し、10年の禁固を言い渡された。1年半ほどのちの1962年2月10日、東西ベルリンの境にあるグリーニッケ橋で、パワーズは、アメリカで捕らえられていたソ連のスパイ、ルドルフ・アベルと交換された。この橋はのちに「スパイの橋」と呼ばれ、この交換は2015年の映画にも描かれた。帰国したパワーズを待っていたのは、英雄としての歓迎ではなかった。なぜ機体を壊さなかったのか、なぜ毒を使わずに捕まり、秘密をしゃべったのか、と非難する声もあった。のちの調査で彼の責任は問われなかったが、名誉が公に認められたのは、1977年に彼がロサンゼルスでテレビ局のヘリコプターの事故で死んだずっと後、2000年以降のことだった。

同型のミサイルS-75
同型のミサイルS-75Wikimedia Commons Tourbillon · CC BY 3.0

U2の事件は、スプートニク1号の後のアメリカの焦りと、ソ連の秘密主義がぶつかった出来事だった。皮肉なことに、同じ1960年の8月、アメリカは人工衛星から撮った写真のフィルムを初めて回収することに成功し、ソ連の上を飛ばずに偵察できる時代が始まった。U2はその後も使われ、1962年のキューバ危機では、キューバに運び込まれたソ連のミサイルを写し出したのもU2だった。撃ち落とされた機体の残骸は、いまもモスクワの軍の博物館に展示されている。スヴェルドロフスクは、ソ連が崩れた1991年、もとの名のエカテリンブルクに戻った。1918年にニコライ2世の一家が殺された町である。

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