人物

ロナルド・レーガン

Ronald Reagan
AD1911年2月6日 – AD2004年6月5日(享年93)
アメリカ合衆国重要度 5

概要

イリノイ。ラジオのアナウンサー、俳優、俳優組合の委員長、GEのスポークスマン、カリフォルニア州知事。69歳で大統領。「悪の帝国」。SDI。軍拡。それからゴルバチョフと4回会って、INF。「ゴルバチョフさん、この壁を壊しなさい」。1994年、アルツハイマーを公表した。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

中距離核戦力全廃条約AD1987年12月8日 · 署名

本文

1911年2月6日、イリノイ州の小さな町タンピコで生まれた。父ジャックは靴のセールスマンで、酒に溺れがちだった。一家は仕事を求めて州内を転々とし、ディクソンの町に落ち着いた。11歳のある冬の夜、家の前の雪の上で酔いつぶれた父を見つけ、引きずって寝室まで運んだことを、彼は後に書いている。母ネルは信心深く楽天的な人で、息子はその明るさを受け継いだ。夏休みには川の水泳場の監視員を7年続け、77人を救ったと伝えられる。

1985年のロナルド・レーガン大統領肖像
1985年のロナルド・レーガン大統領肖像Wikimedia Commons Pete Souza · Public domain

地元の小さなユーリカ大学を出ると、アイオワ州のラジオ局のアナウンサーになった。シカゴ・カブスの野球の試合を、球場から届く電報の短い記録だけを頼りに、まるで目の前で見ているかのように実況した。電報が途切れたとき、打者にファウルを延々と打たせてしのいだという逸話が残る。1937年、ハリウッドでワーナー・ブラザースの専属俳優となった。二枚目の脇役が多かったが、1940年の映画で、死の床で仲間に勝利を託すフットボール選手「ギッパー」を演じ、この役名は後々まで彼のあだ名になった。1942年の映画『キングス・ロウ』では、両脚を切断された青年が目覚めて、ぼくの残りはどこだ、と叫ぶ場面が代表作とされる。

第二次世界大戦中は視力の弱さから前線には出ず、陸軍の宣伝映画づくりに携わった。戦後は映画俳優組合の委員長となり、ハリウッドから共産主義者を締め出す動きに協力した。議会の非米活動委員会に協力的な証人として出て、FBIに情報も提供していた。もとはローズヴェルトを崇拝する民主党員だったが、このころから考えが変わっていった。最初の妻ジェーン・ワイマンと離婚し、1952年に女優ナンシー・デイヴィスと結婚した。ナンシーは生涯、彼の最も近い相談相手となった。

1985年のロナルド・レーガン大統領肖像
1985年のロナルド・レーガン大統領肖像Wikimedia Commons Pete Souza · Public domain

映画の仕事が減ると、1954年から8年間、電機会社GEのテレビ番組の司会を務め、全国の工場を回って従業員に講演した。大きな政府と高い税金への批判を、何千回も繰り返すうちに、彼の演説は磨き上げられた。1962年に共和党に移り、1964年10月、大統領候補ゴールドウォーターの応援でテレビ演説「選択の時」を行い、一夜で保守派の新しい星となった。1966年、カリフォルニア州知事に当選し、2期務めた。学生運動の拠点バークレーには州兵を送り、強硬な姿勢で支持を集めた。

1976年の大統領選挙では共和党の指名をフォードと争って敗れたが、1980年、インフレと失業、イランでのアメリカ大使館の人質事件に苦しむ現職カーターに、4年前より暮らしは良くなりましたか、と問いかけて大勝した。69歳での就任は、当時の最高齢だった。就任から2か月後の1981年3月30日、ワシントンのホテルを出たところで撃たれ、弾は心臓のすぐ近くで止まった。手術室に運ばれるとき、妻に、身をかわすのを忘れたよ、と言い、医師たちに、みなさんが共和党員だといいのだが、と冗談を飛ばした。この落ち着きが、彼の人気を決定的なものにした。

兄(左)と
兄(左)とWikimedia Commons President (1981-1989 : Reagan). White House Photographic Office. 1981-1989 · Public domain

国内では、大幅な減税と規制の緩和、国防費の大幅な増額を進めた。この経済政策は「レーガノミクス」と呼ばれた。1981年夏には、違法なストライキに入った航空管制官1万人あまりを一斉に解雇し、労働組合の力が弱まる時代の先駆けとなった。インフレは収まり、1980年代の半ばから景気は回復したが、財政赤字は膨らみ、在任中に国の借金はおよそ3倍になった。貧富の差が広がったことも、後の批判の的になっている。1981年に最初の報告が出たエイズ(エイズの最初の報告)について、大統領として公の場で本格的に語ったのが1987年までなかったことも、強く批判されている。

外交では、ソ連を「悪の帝国」と呼び、1983年には宇宙から核ミサイルを撃ち落とす戦略防衛構想を打ち出した。同じ年、レバノンのベイルートで海兵隊の宿舎が爆破されて241人が死に、カリブ海のグレナダには軍を送った。1984年、「アメリカに再び朝が来た」と訴えて、50州のうち49州で勝つ圧勝で再選された。

ところが2期目、彼は対決から対話へと大きく舵を切った。ソ連の新しい指導者ゴルバチョフと1985年にジュネーヴで初めて会い、1986年のレイキャヴィクの会談では、両国の核兵器をすべてなくす話にまで踏み込んだ。合意には至らなかったが、1987年12月、一つの種類の核兵器をまるごと廃棄する初めての条約に署名した(中距離核戦力全廃条約)。その半年前の6月、西ベルリンのブランデンブルク門の前で、ゴルバチョフさん、この壁を壊しなさい、と演説した。国務省は挑発的だとしてこの一文を削ろうとしたが、彼は残した。1988年、モスクワの赤の広場で記者に、いまでもソ連を悪の帝国と思うかと聞かれ、それは別の時代の話だ、と答えた。一方、この時期には、イランにひそかに武器を売り、その代金をニカラグアの反政府ゲリラに回していたイラン・コントラ事件が発覚し、政権の信頼は大きく揺らいだ。

中距離核戦力全廃条約に関わる図版:Reagan and Gorbachev signing
中距離核戦力全廃条約Wikimedia Commons White House Photographic Office · Public domain

1989年1月に退任し、その年の11月、ベルリンの壁は崩れた(ベルリンの壁の崩壊)。2年後にはソ連そのものが消えた。冷戦を終わらせたのが彼の軍拡と圧力なのか、ソ連の内側からの崩壊なのか、ゴルバチョフの選択なのかは、いまも論じられている。1994年11月、彼はアルツハイマー病にかかったことを、手書きの手紙で国民に公表した。自分はいま、人生の夕暮れへと向かう旅を始めます、という一節は、多くのアメリカ人の心に残った。2004年6月5日、93歳で亡くなった。

俳優出身の大統領は、テレビの時代の政治家として、言葉と演出で国民に語りかける力に長けていた。後継の共和党の政治家たちは、こぞって自分をレーガンの後継者と称した。減税と小さな政府、強い軍と自由の理念を掲げた彼の路線は、マーガレット・サッチャーのイギリスと並んで、1980年代以降の世界の政治の大きな流れを作った。

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