インドネシアの九・三〇事件

概要
共産党員とされた人びとが50万人以上殺されたとされる。数も経緯もいまだ確定していない。
場所
-6.21°N 106.85°E · インドネシア
本文
1960年代前半のインドネシアは、独立の指導者スカルノのもとで、三つの力が危うく釣り合っていた。陸軍、イスラーム勢力、そしてインドネシア共産党である。共産党は党員300万人を称し、ソ連と中国に次ぐ規模の共産党になっていた。スカルノは「ナサコム(民族主義・宗教・共産主義)」を掲げて三者の上に立ち、マレーシアとの対決や反欧米の外交で求心力を保とうとした。一方で経済は破綻寸前で、物価は年に数百パーセントの勢いで上がっていた。農村では、共産党系の農民組織が土地改革を求めて地主の土地を占拠し、地主やイスラームの団体と激しく対立していた。
1965年9月30日の夜から10月1日の未明にかけて、大統領親衛隊の一部の将校らが「9月30日運動」を名乗って動いた。陸軍の将軍たちがクーデターを企てていると主張し、陸軍首脳の家を襲って、陸軍大臣ヤニら6人の将軍と1人の副官を殺害した。遺体はジャカルタ郊外のルバン・ブアヤの古井戸に投げ込まれた。国防相ナスティオンは塀を越えて逃れたが、幼い娘が撃たれて死んでいる。

この動きを1日のうちに抑え込んだのが、陸軍戦略予備軍の司令官だったスハルトである。運動は首謀者の背後に共産党がいるとされ、陸軍は新聞と放送を押さえて、共産党が将軍たちを惨殺したという話を広めた。運動を実際に誰がどこまで計画したのかは、いまも分かっていない。共産党指導部の一部が関わったことは確かとみられるが、陸軍内部の対立、スハルト自身の関与、外国の工作を疑う説まであり、決着していない。
10月半ばから、虐殺が始まった。陸軍の空挺部隊が中部ジャワに入り、各地で地元の民兵や宗教団体の青年組織を組織し、武器と名簿を与えた。最も多くの死者が出たのは、中部ジャワ、東ジャワ、そしてバリ島である。共産党員とその家族、労働組合や農民組織、女性団体の会員が、捕らえられ、川べりや畑で殺された。共産党員だという告発ひとつで十分で、土地争いの相手や個人的な恨みの対象、華人も巻き込まれた。

死者の数ははっきりしない。50万人とする見積もりが広く使われ、100万人を超えるという推計もある。そのほかに数十万人が裁判なしに収容され、長い者は10年以上を過ごした。政治犯の島として知られたブル島には、作家プラムディヤ・アナンタ・トゥールも送られている。
殺戮が進むなかで、スカルノの力は削られていった。1966年3月11日、スカルノは治安回復の全権をスハルトに委ねる命令書に署名させられ、共産党は非合法化された。スハルトは1967年に大統領代行、翌年に大統領となり、「新秩序」と呼ばれる体制のもとで1998年のスハルトの退陣まで32年間国を率いた。

西側諸国は、この転換を冷戦の勝利として歓迎した。のちに公開されたアメリカの外交文書は、大使館が共産党幹部の名簿を陸軍に渡していたことや、殺害の規模を把握しながら黙認していたことを示している。東南アジア最大の共産党が消え、インドネシアは西側寄りの開発独裁の道を歩む(物語「冷戦」)。
体制のもとで、この出来事は「共産党の反乱とその鎮圧」として語られ、毎年9月30日には将軍たちを悼む反共の映画がテレビで流された。元政治犯とその家族は身分証に印を付けられ、就職や結婚で差別された。語ることが少しずつ許されるようになったのは、スハルトが退いてからである。2012年、国家人権委員会はこれを重大な人権侵害と認定し、2023年には大統領が過去の重大な人権侵害の一つとして認め、遺憾の意を示した。ただし公式の謝罪や責任者の訴追は行われておらず、加害者たちがいまも地域の有力者として暮らしている例も少なくない。