概要
1969年1月16日、プラハのヴァーツラフ広場で、20歳の大学生ヤン・パラフが、自らの体にガソリンをかけて火を付けた。前の年の8月、ソ連とワルシャワ条約機構の軍が攻め込んで「プラハの春」を押しつぶしてから、人々は検閲の復活と改革の後退を黙って受け入れはじめていた。パラフは、その諦めに抗議するためだったと書き残している。三日後に死んだ彼の葬儀には、数万人が集まった。二十年後の1989年1月、彼の死を悼む集会が警官に蹴散らされ、それが秋のビロード革命へつながる抗議のうねりの始まりになった。
場所
50.08°N 14.44°E · チェコ
本文
1968年8月21日、ソ連とワルシャワ条約機構の軍がチェコスロヴァキアに攻め込み、プラハの春を押しつぶした。指導者ドゥプチェクらはモスクワに連れ去られ、改革を元に戻すことを約束させられて帰ってきた。はじめ人々は、道路標識を外して戦車を迷わせ、兵士に話しかけて、非暴力で抵抗した。しかし秋から冬にかけて、検閲が戻り、改革を進めた人々が職を追われ、人々は疲れと諦めの中へ沈んでいった。
カレル大学で哲学を学ぶ20歳の学生ヤン・パラフは、その様子を見ていた。1969年1月16日の午後、彼はプラハの中心のヴァーツラフ広場で、国立博物館の前に立ち、ガソリンをかぶって火を付けた。持っていた手紙には、検閲をやめること、占領者の宣伝の新聞を配らないことを求め、それが聞かれなければ次の「松明」が続く、と書かれていた。
パラフは全身にやけどを負い、三日後の1月19日に死んだ。病院で、彼は自分の行いを人にまねしてほしくない、と語ったと伝えられる。葬儀の日、プラハの街には数万人が並んだ。2月には、18歳の学生ヤン・ザイーツが、同じ広場で同じように命を絶った。
共産党の政府は、パラフの墓を掘り起こして遺体を焼き、名前を人々の記憶から消そうとした。しかし20年後の1989年1月、彼の死を悼んでヴァーツラフ広場に集まった人々を、警官が放水と警棒で追い散らした。「パラフ週間」と呼ばれるこの一週間の抗議で、劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルも逮捕される。人々の怒りは、その年の11月のビロード革命へつながった。