ナジ・イムレ
概要
第一次大戦でロシアの捕虜になり、ボリシェヴィキに。モスクワで20年、NKVDに情報を渡していた。1953年に首相、1955年に追われ、1956年10月に民衆が呼び戻した。中立を宣言し、ソ連の戦車が来て、ユーゴ大使館に逃げ、騙されて捕えられ、絞首刑。1989年6月、25万人が再埋葬に集まった。
関わったできごと(1)
ハンガリー動乱AD1956年10月23日 · 首相本文
ナジ・イムレは、1896年6月7日、ハンガリー南西部のカポシュヴァールで、貧しい農民の家に生まれた。錠前職人の見習いとして働いたあと、第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー軍に召集され、東部戦線でロシア軍の捕虜になった。シベリアの収容所にいるあいだにロシア革命が起き、彼はボリシェヴィキに加わって赤軍で戦った。

1921年に帰国すると、非合法の共産党の活動に加わった。1928年に国外へ逃れ、1930年からはモスクワで、農業問題の研究者として暮らした。スターリンの粛清が続くなか、多くの亡命共産主義者が処刑されたが、ナジは生き延びた。1989年以降に公開されたソ連の記録から、彼がこの時期、秘密警察の情報提供者として、亡命者仲間の情報を渡していたことが明らかになっている。生き延びるための代償だったとみられる。
1944年、ソ連軍とともにハンガリーに戻ったナジは、農業大臣として大地主の土地を農民に分ける土地改革を進めた。農民に土地を与えた人として人気を得た。その後、内務大臣などを務めたが、1949年、急激な農業の集団化に反対したとして批判され、党の中枢から外された。
1953年3月、ヨシフ・スターリンが死んだ(スターリンの死)。ソ連の新しい指導部は、ハンガリーの独裁者ラーコシのやり方が行き過ぎていると見て、ナジを首相に据えさせた。ナジは「新路線」を掲げ、収容所の閉鎖、集団化の緩和、消費物資の増産を進めた。しかしラーコシは党の第一書記として残り、1955年、ナジを首相から追い落とし、党から除名した。

1956年2月、ソ連のニキータ・フルシチョフがスターリンを批判した(フルシチョフの秘密報告)。東欧に動揺が広がり、10月にはポーランドで改革派が政権を握った。10月23日、ブダペストでポーランドへの連帯を示す学生のデモが起き、数十万人の群衆に膨れ上がった。群衆はナジの名を呼んだ。その夜、議会前の広場で演説したナジが「同志諸君」と呼びかけると、群衆は「我々は同志ではない」と叫び返したという。デモは銃撃をきっかけに武装蜂起になった(ハンガリー動乱)。
10月24日、ナジは首相に就いた。ソ連軍の出動を求めたのは党の他の指導者で、ナジではなかったとされる。ナジは初め、蜂起を「反革命」と呼んだが、数日のうちに民衆の側に立った。10月28日、停戦を発表し、これは民族の民主的な運動だと認めた。30日、一党独裁をやめて複数政党の政府を作ると宣言した。ソ連軍はいったんブダペストから引き上げた。
しかし11月1日、ナジはワルシャワ条約機構からの脱退とハンガリーの中立を宣言し、国連に保護を訴えた。ソ連はこれを許さなかった。11月4日未明、ソ連軍の大部隊がブダペストに攻め込んだ。ナジはラジオで抵抗を呼びかけたあと、ユーゴスラヴィア大使館に逃げ込んだ。西側諸国は、同じ時期に起きたスエズ危機にも気を取られ、助けには来なかった。

11月22日、新しい政権のカーダール・ヤーノシュから身の安全を約束する文書を受け、ナジは大使館を出た。だがバスはすぐにソ連軍に止められ、彼はルーマニアに連れ去られて監禁された。1957年にハンガリーへ移され、1958年6月、非公開の裁判で死刑を言い渡された。彼は恩赦を求めなかった。6月16日、同志のマレーテル・パール、ジメシュ・ミクローシュとともに絞首刑になった。遺体はブダペストの墓地の外れの区画に、名前もなく埋められた。
それから31年後の1989年6月16日、ナジと処刑された仲間たちの棺が、ブダペストの英雄広場に並べられた。名もなく死んだ革命家たちのための空の棺も置かれた。25万人ともいわれる人々が集まった。演壇に立った26歳のオルバーン・ヴィクトルは、ソ連軍の撤退を公然と求めた。7月6日、最高裁判所はナジの名誉を回復した。同じ日、彼を処刑させたカーダールが死んだ。

ナジは最後まで共産主義者だった。民衆に押されて一党独裁と同盟を捨てた共産主義者だった。1996年、議会の近くの広場に、橋の上から議会を見つめる彼の像が立てられた。この像は2018年の末、政府の決定で別の場所へ移された。