トゥグリル・ベグ
概要
オグズの一部族を率いてイランを取り、バグダードに入ってカリフから「東西の王」の称号を受けた。カリフの娘を妻に求め、認めさせた。
所属
セルジューク朝関わったできごと(1)
ダンダーナカーンの戦いAD1040年 · 総指揮本文
トゥグリル・ベグ(正しくはトゥグリル・ベク)の名のトゥグリルは、テュルク語で猛禽の一種を指すといわれる。990年ごろの生まれとされるが、確かではない。中央アジアの草原で遊牧するテュルク系のオグズの人々の一派、セルジュークの一族の出である。祖父セルジュークは10世紀の終わりごろ、シル川の下流のジャンドの町の近くに一族を率いて移り、イスラームを受け入れた。この祖父の名が、やがて王朝の名になる(セルジューク朝)。

父ミカーイールは早くに死に、トゥグリルは兄のチャグリとともに祖父のもとで育った。兄弟は生涯、二人で一族を率いた。当時のマー・ワラー・アンナフル(いまのウズベキスタンあたり)は、東のカラハン朝と、アフガニスタンを本拠とするガズナ朝が争う土地で、遊牧の戦士たちはそのどちらかに仕えたり、離れたりしながら生き延びていた。ガズナ朝のマフムード・ガズナウィーは、セルジュークの一族の長を捕らえてインドの城に閉じ込め、その配下の遊牧民をホラーサーン(イラン東部)に移した。
1030年代、トゥグリルとチャグリはアム川を越えてホラーサーンに入り、家畜を養う牧地を求めて、町を一つずつ手に入れていった。1038年ごろには、ホラーサーンの中心都市ニーシャープールに入り、ガズナ朝のスルタンの玉座に座って、自らの名で金曜礼拝の説教を唱えさせた。遊牧の戦士が、都市の支配者になろうとしていた。
ガズナ朝のスルタン、マスウードは、象と重装の兵を備えた大軍で反撃した。1040年5月、メルヴの近くの砂漠の城塞ダンダーナカーンで、両軍はぶつかった(ダンダーナカーンの戦い)。セルジューク側は水場を押さえ、暑さと渇きに苦しむガズナ軍を騎馬の弓で攻め立て、打ち破った。ガズナ朝はホラーサーンを失い、東のアフガニスタンとインドへ退いた。

勝利のあと、一族は土地を分けた。兄チャグリはメルヴを中心に東を治め、トゥグリルは西へ向かった。イラン高原の町レイ(いまのテヘランの近く)を本拠とし、1051年には1年近い包囲の末にイスファハーンを落とした。トゥグリルは遊牧の首長であるだけでなく、ペルシア人の官僚を登用し、宰相クンドゥリーのもとで都市と農村を治める仕組みを整えていった。
そのころ、イスラーム世界の中心バグダードでは、アッバース朝のカリフが名ばかりの存在になっていた。1世紀前にイランのシーア派の王朝ブワイフ朝がバグダードに入って(ブワイフ朝のバグダード入城)以来、実権は軍人たちの手にあった。エジプトには、別のカリフを立てるシーア派のファーティマ朝があり、その影響がイラクにも及んでいた。スンナ派のカリフ、カーイムは、トゥグリルに救いを求めた。1055年12月、トゥグリルはバグダードに入り、ブワイフ朝の最後の君主を捕らえて、その支配を終わらせた。

1058年、カリフはトゥグリルを宮殿に迎え、「東と西の王」の称号を授けた。カリフは宗教の権威を、スルタンは政治と軍事の実権を持つ。この形が、以後のスンナ派の世界で長く続くことになる。だがそのすぐあと、トゥグリルの異母弟イブラーヒーム・イナールが背き、トゥグリルがその討伐に向かった隙に、ファーティマ朝と結んだ軍人バサースィーリーがバグダードを奪った。カリフは追い出され、モスクではエジプトのカリフの名が唱えられた。トゥグリルはイナールを討って処刑し、1060年初めにバグダードを取り返して、カリフを都に戻した。カリフの保護者という立場は、これで動かぬものになった。
晩年、トゥグリルはカリフの娘を妻に求めた。すでにカリフはチャグリの娘、つまりトゥグリルの姪を妃に迎えていたが、カリフの娘を遊牧の出のスルタンに嫁がせることは、アッバース家の誇りが許さなかった。カリフは拒み続けた。トゥグリルはバグダードでのカリフの収入を差し押さえ、圧力をかけて、ついに婚約を認めさせた。1063年、70歳を超えたトゥグリルはバグダードで婚礼をあげた。だがその数か月後、レイへ戻る途中で病に倒れ、9月に死んだ。
トゥグリルには子がいなかった。後継の争いを制したのは、兄チャグリの子アルプ・アルスラーンである。アルプ・アルスラーンは宰相ニザームルムルクとともに国を固め、1071年のマンジケルトの戦いで東ローマ軍を破って、テュルク系の人々がアナトリアへ広がる道を開いた。そこから始まる流れは、やがて西ヨーロッパに十字軍の呼びかけ(十字軍の呼びかけ)を生むことになる。草原から来た一族を、イスラーム世界の主役に押し上げたのが、トゥグリルとチャグリの兄弟だった。