できごと

カルバラーの悲劇

Battle of Karbala
AD680年10月10日
重要度 5
カルバラーの悲劇に関わる図版:Brooklyn Museum - Battle of Karbala - Abbas Al-Musavi - cropped
Brooklyn Museum - Battle of Karbala - Abbas Al-Musavi - cropped Wikimedia Commons Persian Painter Abbas Al-Musavi. · Public domain

概要

預言者の孫フサインが、72人の一行でクーファへ向かう途中、ウマイヤ朝の軍に囲まれ、水を断たれ、殺された。首はダマスクスに送られた。シーア派はこの日を毎年、胸を打って悼む。

場所

カルバラー
32.62°N 44.02°E · イラク

関わった人(1)

フサイン・イブン・アリーAD626年–AD680年10月10日 · 殺された

本文

預言者ムハンマドが632年に死ぬと、だれが共同体を率いるかをめぐって、イスラム教徒の間に深い亀裂が生まれた。預言者の従弟で娘婿のアリーこそがふさわしいと考える人々は、アリーの党派、「シーア・アリー」と呼ばれた。アリーは第4代のカリフとなったが、シリア総督のムアーウィヤと争ううちに、661年に暗殺された。ムアーウィヤはカリフとなってウマイヤ朝の成立を開き、ダマスクスを都とした。アリーの長男ハサンは、カリフ位をめぐる争いから身を引いた。

680年4月、ムアーウィヤが死に、息子のヤズィードがカリフの位を継いだ。父から子へカリフの位を受け継ぐことは、それまでに無かったことだった。メディナにいたアリーの次男フサイン・イブン・アリーは、ヤズィードへの忠誠の誓いを拒み、メッカへ移った。フサインは預言者の娘ファーティマの子、つまり預言者の孫である。

カルバラーの戦い(アッバース・アルムーサヴィー画、ブルックリン美術館)
カルバラーの戦い(アッバース・アルムーサヴィー画、ブルックリン美術館)Wikimedia Commons Abbas Al-Musavi · Public domain

そこへ、イラクのクーファから手紙が次々に届いた。クーファは、かつてアリーが都とした町で、アリーの家を慕う人々が多かった。我々には指導者がいない、どうか来てほしい、と手紙は訴えた。フサインは従弟のムスリム・イブン・アキールを先に送って様子を探らせた。数多くの人々が忠誠を誓ったという知らせが届いた。伝承では、その数は1万8000人とされる。

ところが、ヤズィードはクーファに新しい総督ウバイドゥッラー・イブン・ズィヤードを送り込んだ。総督が脅しと買収で有力者を押さえると、町の人々は恐れて散り、ムスリムは捕らえられて処刑された。フサインはその知らせを受け取らないまま、9月、家族と従者を連れてメッカを出た。

ヤズィード軍団とフサイン軍団の位置。
ヤズィード軍団とフサイン軍団の位置。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

イラクの砂漠に入ったところで、一行はウマイヤ朝の騎兵の部隊に行く手を阻まれた。率いていたのはフッルという武将である。フサインはクーファに入ることも、引き返すこともできず、ユーフラテス川に近いカルバラーの野に陣を張った。イスラム暦のムハッラム月の2日だった。まもなく、ウマル・イブン・サアドの率いる数千の軍が到着し、7日には、一行は川から切り離され、水を断たれた。砂漠の秋の暑さの中で、子どもたちが渇きに泣いた。

ムハッラム月の10日、アーシューラーの日、西暦680年10月10日、戦いが始まった。フサインの側の男たちは、伝承で72人とされる。彼らは数千の敵に向かって、一人また一人と出ていき、討たれた。フサインの兄弟、甥、息子たちも死んだ。前日まで敵の部隊を率いていたフッルは、この日の朝、フサインの側に移り、真っ先に戦って死んだと伝えられる。

戦場
戦場Wikimedia Commons ninara · CC BY 2.0

伝承によれば、フサインは生後半年ほどの幼い息子を抱き上げ、せめてこの子に水を、と敵に乞うた。答えは矢だった。子どもはフサインの腕の中で死んだ。最後にフサイン自身が戦い、多くの傷を負って倒れ、首を斬られた。その役を果たしたのは、シムルという男だったとされる。遺体は馬に踏みにじられたと伝えられる。

首はクーファの総督のもとへ、さらにダマスクスのヤズィードのもとへ送られた。ヤズィードが首の唇や歯を杖で突いたという話が伝わるが、同じ話はクーファの総督についても語られている。生き残った女たちと子どもたち、それに病で戦いに出られなかったフサインの息子アリーは、捕虜としてダマスクスへ連れて行かれた。フサインの妹ザイナブは、ヤズィードの宮廷で臆することなく語り、兄の死を訴えたと伝えられる。息子のアリーは、のちにシーア派の第4代イマーム、ザイヌル・アービディーンとして敬われる。

さようならフサインと彼の家族
さようならフサインと彼の家族Wikimedia Commons Undetermined. Original uploader was Alborzagros · Public domain

軍事的に見れば、カルバラーの戦いは、ごく小さな一行が大軍に囲まれて全滅しただけの出来事だった。しかし、預言者の孫が、ウマイヤ朝の手で、渇きの中で殺されたという事実は、イスラム世界に深い傷を残した。クーファの人々は、招いておきながら見捨てたことを悔い、悔悟者と呼ばれる運動を起こした。カルバラーは、アリーの家を支持する人々が一つの信仰の共同体、シーア派としてまとまっていく原点になった。

シーア派の人々は、毎年ムハッラム月の初めの10日間、フサインの死を悼む。殉教の物語を語り聞かせ、胸を打って泣き、地域によっては鎖で背中を打つ。イランでは、カルバラーの出来事を演じる受難劇タアズィエが発達した。毎日がアーシューラー、すべての土地がカルバラー、という言葉は、不正な支配者に抗って倒れたフサインの記憶を、日々の生き方に重ねるものだ。1979年のイラン革命では、王の政府をヤズィードになぞらえ、この言葉が人々を街頭へ動かした。

ヤズィード宮殿で
ヤズィード宮殿でWikimedia Commons Farzad Mentai · CC BY 4.0

カルバラーには、フサインの墓廟が建てられ、シーア派の最も重要な聖地の一つになった。アーシューラーから40日目のアルバイーンには、毎年膨大な数の巡礼者が、イラク南部の各地から何日もかけて歩いて集まる。サッダーム・フセインの政権は、こうした大規模な巡礼を厳しく制限し、イラン・イラク戦争の時代も緊張は続いたが、人々の信仰は途絶えなかった。2003年に政権が倒れたあと、巡礼の行列は年ごとに膨れ上がっている。

同じ時代のできごと

百済の滅亡AD660年黄山伐の戦いAD660年7月元暁の悟りAD661年ウマイヤ朝の成立AD661年白村江の戦いAD663年ウィットビー教会会議AD664年近江大津宮への遷都AD667年高句麗の滅亡AD668年
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