アッバース革命

概要
ホラーサーンで黒旗を掲げた軍がウマイヤ朝を倒した。預言者の叔父の子孫が新しいカリフになり、ウマイヤ家を宴に招いて皆殺しにした。アラブの帝国が、ペルシア人と改宗者を含む帝国に変わる。
場所
32.03°N 44.40°E · イラク
本文
750年、イスラームの帝国を90年近く治めてきたウマイヤ朝が倒れ、預言者ムハンマドの叔父アッバースの子孫が、新しいカリフの王朝を開いた。アッバース朝である。革命の軍は、帝国の東の果て、ホラーサーン(いまのイラン北東部から中央アジアにかけての地方)で黒い旗を掲げて起こった。この王朝の交代によって、アラブ人が支配する帝国は、ペルシア人をはじめとする多くの民族の改宗者を含む、イスラームの帝国へと姿を変えていった。
ウマイヤ朝の成立から始まったウマイヤ朝は、征服によって西はイベリア半島から東は中央アジアまで版図を広げた。しかし帝国の中には、いくつもの不満が積み重なっていた。一つは、アラブ人ではない改宗者、マワーリーと呼ばれる人々の不満である。彼らはイスラームに改宗しても、アラブ人と同じ扱いを受けられず、重い税を課され続けることが多かった。二つ目は、アラブ人の部族どうしの対立で、北アラブ系と南アラブ系の部族がことあるごとに争い、ウマイヤ朝のカリフたちはその一方に肩入れして、もう一方の恨みを買った。そして三つ目が、カリフの位はムハンマドの家の者が継ぐべきだという考えだった。680年のカルバラーの悲劇で、預言者の孫フサインがウマイヤ朝の軍に殺されて以来、この思いは多くの人々の心にくすぶっていた。

アッバースは預言者ムハンマドの叔父にあたる。その子孫のムハンマド・イブン・アリーは、8世紀の初め、ヨルダンの南の小さな村に住みながら、ひそかに支持者の組織を作り始めた。彼らはホラーサーンに宣伝員を送り込み、「ムハンマドの家の中から、皆が納得する者を」カリフに、と呼びかけた。それが具体的に誰なのかは、あえて言わなかった。預言者の家と言えば、多くの人は預言者の娘婿アリーの子孫を思い浮かべた。アリーの子孫を支持するシーア派の人々も、改宗者たちも、ウマイヤ朝の部族政治に疲れたアラブ人も、この曖昧な呼びかけのもとに集まった。
ホラーサーンが選ばれたのには理由があった。帝国の都ダマスクスから遠く、ウマイヤ朝の支配が届きにくかった。征服のあとこの地に移り住んだアラブ人の兵士たちは、土地のペルシア人と混じり合い、ウマイヤ朝の総督に不満を抱いていた。

745年ごろ、運動の指導者はホラーサーンにアブー・ムスリムという若者を送り込んだ。出自ははっきりせず、解放奴隷だったとも言われる謎の多い人物だが、組織を作る才能にたけていた。747年、アブー・ムスリムはメルヴの近くの村で、黒い旗を掲げて蜂起した。黒は、運動の色だった。ウマイヤ朝の総督の軍は、アラブ部族どうしの争いで足並みがそろわず、アブー・ムスリムの軍は短い間にホラーサーンを手中に収めた。軍は西へ進み、748年から749年にかけてイランを横断して、イラクに入った。
そのころ、運動の指導者イブラーヒームは、ウマイヤ朝の最後のカリフ、マルワーン2世に捕らえられ、獄中で死んでいた。749年11月、イラクのクーファのモスクで、イブラーヒームの弟アブー・アル・アッバースが、カリフとして人々の忠誠の誓いを受けた。アリーの子孫ではなく、アッバース家の者がカリフになった。アリーの子孫を担ぐつもりで運動に加わったシーア派の人々は、ここで裏切られたことになる。アブー・アル・アッバースは「サッファーフ」と呼ばれる。血を流す者、あるいは気前のよい者、という二つの意味に読める呼び名で、どちらの意味かは説が分かれる。

750年1月、イラク北部のティグリス川の支流、大ザーブ川のほとりで、マルワーン2世の率いるウマイヤ朝の軍と、アッバース家の軍が決戦に臨んだ。ウマイヤ朝の軍は大敗した。マルワーンはシリアからパレスチナを経てエジプトへ逃れたが、8月、ナイル川のほとりの村で追っ手に討たれた。ダマスクスはその年の春に落ちていた。ウマイヤ朝のカリフたちの墓は暴かれ、遺体は辱められたと伝えられる。
アッバース家は、ウマイヤ家の生き残りに容赦しなかった。最も有名な話は、パレスチナの川のほとりで起きた宴の惨劇である。サッファーフの叔父アブドゥッラーは、ウマイヤ家の男たち80人ほどに、命を保証すると言って宴に招いた。宴の途中、合図とともに兵が棍棒で客を打ち倒し、まだうめいている者たちの上に革の敷物をかぶせて、その上で食事を続けた、と伝えられる。この話には脚色があるとしても、ウマイヤ家の人々が各地で次々に殺されたことは確かである。
ただ一人、カリフ・ヒシャームの孫のアブドゥッラフマーンは、追っ手を逃れてユーフラテス川を泳いで渡り、北アフリカを放浪したのち、755年にイベリア半島に渡った。翌年、彼はコルドバを都にして自立した。これが後ウマイヤ朝の始まりで、ウマイヤ家の血は、帝国の西の果てで生き延びた。
754年にサッファーフが死ぬと、兄のマンスールが2代目のカリフになった。マンスールは、革命の最大の功労者アブー・ムスリムを恐れた。ホラーサーンに強い支持を持つアブー・ムスリムは、カリフをしのぐ力を持ちかねなかった。755年、マンスールはアブー・ムスリムを宮殿に呼び寄せ、その場で殺させた。革命を作った男は、革命の果実を手にすることなく消された。
アッバース朝は、ウマイヤ朝とは違う国になった。都はシリアのダマスクスから東のイラクへ移り、762年にはティグリス川のほとりにバグダードの建設が始まる。軍の中心は、アラブの部族の兵から、ホラーサーンの兵に変わった。行政には、ササン朝ペルシアの官僚の伝統が取り入れられ、宰相の位が置かれて、ペルシア系の名門バルマク家がその地位を担った。改宗者とアラブ人の区別は薄れ、イスラームに改宗した者は、民族を問わず同じ信徒として扱われるようになっていった。751年には中央アジアのタラス河畔の戦いで唐の軍を破っている。ハールーン・アッラシードの時代、バグダードは世界有数の大都市として栄え、バグダードの知恵の館ではギリシアの学問の翻訳が進んだ。

750年の前と後とでは、歴史の書かれ方も変わった。ウマイヤ朝の時代のことを伝える歴史書の多くは、アッバース朝の時代に書かれた。そのため、ウマイヤ朝は世俗的で不信心な王朝として、アッバース朝の革命は正しい信仰の回復として描かれる傾向がある。ウマイヤ朝の実像と、アッバース革命の本当の性格を、勝った側の記録の向こうに見通すことは、いまも歴史家の大きな課題になっている。