ニコポリスの戦い

概要
フランス、ハンガリー、ドイツの騎士が最後の十字軍としてドナウを下り、バヤズィトに壊滅させられた。捕虜3000人が翌朝斬られた。以後、西欧はオスマンに軍を送らない。
場所
43.71°N 24.90°E · ブルガリア・ニコポル
関わった人(1)
バヤズィト1世(雷帝)AD1360年–AD1403年3月8日 · スルタン本文
14世紀の後半、オスマン朝はバルカン半島を北へ広がっていた。1389年のコソヴォの戦いでセルビアを従え、1393年にはブルガリアの都タルノヴォを落とし、1395年ごろにはドナウ川の向こう、ハンガリー王国の国境にまで迫った。スルタンバヤズィト1世(雷帝)は、その素早い動きから「雷帝」と呼ばれ、1394年からはビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを封鎖していた。
ハンガリー王ジギスムント(のちの神聖ローマ皇帝)は、西ヨーロッパに助けを求めた。教会はこのころローマとアヴィニョンに二人の教皇が並び立つ分裂のさなかにあったが、どちらの教皇も十字軍を呼びかけた。百年戦争が休戦に入っていたフランスでは、騎士たちが手柄を立てる場を求めていた。総大将には、ブルゴーニュ公の長男で24歳のヌヴェール伯ジャンが立った。経験の浅い若者を、ブシコー元帥、老練な貴族クーシー領主アンゲラン、ウー伯、ラ・マルシュ伯らが支えた。ブルゴーニュ公は、息子の門出のために莫大な費用を出し(ブルゴーニュ公の宮廷)、一行の装いは華やかだった。ドイツやボヘミアの騎士、ロドス島の聖ヨハネ騎士団も加わり、ヴェネツィア共和国とジェノヴァの船がドナウの河口と黒海を受け持った。

軍の数は、当時の年代記には10万とも書かれたが、いまは1万5000から2万ほどと見積もられることが多い。1396年の夏、軍はブダに集まってドナウ川沿いに下り、ヴィディンとラホヴォの町を取った。ラホヴォでは降伏した住民の多くが殺された。9月12日、軍はドナウ川の南岸の要塞ニコポリスを囲んだ。だが、城壁を崩す攻城機を持ってきておらず、兵糧攻めに入った。陣中では宴が続き、スルタンは来ないと高をくくる者もいたと伝えられる。
バヤズィトはコンスタンティノープルの囲みを解いて北へ急ぎ、セルビアの公ステファン・ラザレヴィチの騎兵も加えて、9月の下旬にニコポリスの近くへ着いた。兵の数は十字軍とほぼ同じだったとみられる。9月25日、戦いの前の軍議で、オスマンの戦い方を知るジギスムントは、まずハンガリーの軽装の兵を前に出し、敵の前衛の軽騎兵と弓兵を払ってから、騎士の本隊を使うよう説いた。だがフランスの騎士たちは、後ろに控えるのは名誉に反するとして、先陣を譲らなかった。

ヌヴェール伯とウー伯の騎士たちは突撃し、オスマンの前衛の軽騎兵を蹴散らした。その先には、地面に打ち込んだ尖った杭の列と、その後ろの弓兵がいた。騎士たちは馬を降りて杭を抜き、歩兵を破って坂を登り続けた。重い鎧で坂を登りきり、疲れ果てたところに、丘の向こうからスルタンの精鋭の騎兵シパーヒが現れた。フランスの騎士たちは囲まれ、討たれ、あるいは捕らえられた。後ろにいたハンガリーの軍とほかの兵の多くは、主人を失った馬が駆け戻ってくるのを見て崩れた。ジギスムントは、ドナウ川に浮かべた船に逃げ込み、黒海へ出てコンスタンティノープルを回り、長い船旅をして国へ帰った。
翌朝、バヤズィトは捕虜を集めさせた。ラホヴォでの虐殺に怒っていたうえに、自軍の損害も大きかったからだといわれる。身代金の取れる20数人の大貴族を除き、捕虜は次々に首をはねられた。殺された数は3000人ほどとも、それよりずっと多かったとも伝えられる。バイエルンから従軍していた16歳の従者ヨハン・シルトベルガーは、若さのために命を助けられて奴隷になった。彼はのちにオスマンの軍に従い、1402年にはティムールの捕虜となり、30年あまりのちに故郷へ帰って、この日のことを書き残している。

ヌヴェール伯ジャンらは、20万フローリン(ドゥカート)ほどともいわれる身代金を払って翌1397年に帰った。クーシー領主とウー伯は、身代金が届く前に捕囚の地で死んだ。帰国したジャンは「無畏公」と呼ばれ、のちにブルゴーニュ公としてフランスの内乱の中心に立った。ブシコーは騎士道の理想を守るための騎士団を作り、そののちもオスマンと戦い続けた。
ニコポリスの敗北で、西ヨーロッパの騎士が大挙して東へ向かう十字軍は事実上終わった。1444年のヴァルナの十字軍はハンガリーとポーランドが中心で、西からの加勢はわずかだった。オスマン朝はコンスタンティノープルの封鎖に戻ったが、1402年、東からティムールが攻め込み、アンカラの戦いでバヤズィトは捕らえられた。オスマン朝は一時ばらばらになり、コンスタンティノープルが落ちる(コンスタンティノープル陥落)のは、それから半世紀ののちになった。