できごと

ジャディード運動

Jadidism
1883年 – 1928年
期間を持つできごと重要度 3
ジャディード運動に関わる図版:Ismail Gasprinskiy
Ismail Gasprinskiy Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

概要

ロシア帝国のムスリム知識人が、新しい方式の学校と新聞で改革を試みた。宗教を捨てずに近代化するという道は、革命後のソビエトに潰される。

場所

バフチサライ
44.75°N 33.86°E · クリミア

本文

19世紀の後半、ロシア帝国の中には、1000万を超えるムスリムが暮らしていた。16世紀にモスクワに征服されたヴォルガ川流域のタタール人(カザン攻略)、18世紀に併合されたクリミア半島のタタール人、カフカースの人びと、そして19世紀後半に征服されたばかりの中央アジアのオアシスの人びと(ロシアのタシケント占領)。ロシアの力が増すにつれて、ムスリムの知識人たちは、なぜ自分たちの社会は遅れをとったのか、と問わずにはいられなかった。

その答えを学校に求めたのが、クリミアのイスマイル・ガスプリンスキーである。1851年に生まれ、モスクワの陸軍学校で学び、パリとイスタンブルにも暮らして、ヨーロッパとオスマン帝国の改革を間近に見た。故郷に戻った彼は、1883年、クリミアのバフチサライで新聞『テルジュマン(翻訳者)』を創刊した。ロシア語とテュルク系の言葉を並べた紙面で、帝国中のムスリムが読める共通の言葉を作ろうとし、「言葉と思想と行動の一致」を掲げた。新聞は、ヴォルガからカフカース、中央アジアまで読者を得た。

ザイヌッラー・ラスーリー(ジャディード運動の宗教指導者)
ザイヌッラー・ラスーリー(ジャディード運動の宗教指導者)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

翌1884年、ガスプリンスキーは新しい方式の学校を開いた。それまでのムスリムの初等学校では、子どもたちはアラビア文字の名前を一つずつ覚え、意味の分からないアラビア語のコーランの章句を何年もかけて暗誦するところから始めた。読み書きができるようになるまでに長い年月がかかり、できないまま終わる子も多かった。新しい方式では、文字を音と結びつけて教え、まず子どもの母語で読み書きを覚えさせる。算数や地理や歴史も教え、机と黒板を使い、学年ごとに授業を組んだ。ガスプリンスキーは、この方式なら子どもは数十日で読めるようになると宣伝した。「新しい方式(ウスーリ・ジャディード)」と呼ばれたこの教え方から、改革を唱える人びとは「ジャディード(新しい者)」と呼ばれるようになる。

運動はヴォルガのタタール人の商人の支えを受けて広がり、20世紀の初めには中央アジアにも根を下ろした。サマルカンドのベフブーディーは新しい方式の学校を開き、新聞を発行し、1911年には中央アジアで最初の近代劇とされる『父殺し』を書いた。息子に教育を受けさせなかった父親が、無知な息子に殺されるという筋で、教育の大切さを訴える劇である。タシケントのムナッヴァル・カーリー、ブハラのフィトラトらも、学校と新聞と出版で改革を説いた。彼らはイスラームを捨てようとしたのではない。むしろ、無知と迷信のために本来のイスラームが曇らされていると考え、近代の知識とイスラームの信仰は両立すると主張した。

イスマイル・ガスプリンスキーの風刺画(雑誌『モッラ・ナスレッディン』より)
イスマイル・ガスプリンスキーの風刺画(雑誌『モッラ・ナスレッディン』より)Wikimedia Commons Oskar Schmerling · Public domain

改革には、二つの方向から抵抗があった。古い方式を守るウラマー(宗教学者)たちは、新しい学校を信仰を損なうものだと非難し、ブハラのアミールは改革者を弾圧した。ロシアの当局は、ムスリムが言葉と宗教で団結し、汎テュルク主義や汎イスラーム主義の運動になることを恐れ、新しい学校を監視した。

1917年のロシア革命を、ジャディードの多くは機会と受け止めた。彼らはコーカンドでトルキスタン自治政府を宣言したが、1918年2月、赤軍に攻め落とされた。これは、のちのバスマチの抵抗の引き金にもなる(バスマチ蜂起)。それでもジャディードの一部は、ソビエト政権と手を結ぶ道を選んだ。ブハラの若い改革者たちは赤軍とともにアミールを倒し、ファイズッラ・ホジャエフはのちにウズベク共和国の政府の長になった。1920年代、彼らは新しい国家の学校と出版と文学の担い手になった。中央アジアの言葉の書き方は、アラビア文字から、1920年代の終わりにラテン文字へ切り替えられる(同じころトルコでも、トルコの文字改革が行われた)。

ロシア革命に関わる図版:Митинг на Невском проспекте (1917)
ロシア革命Wikimedia Commons unknown; photo retake by George Shuklin · Public domain

しかし、ソビエト政権にとって、信仰と民族の誇りを持ち続けるジャディードは、やがて邪魔な存在になった。1920年代の終わりから彼らは「ブルジョア民族主義者」として攻撃され、大粛清のさなかの1937年から38年にかけて、フィトラト、詩人チョルパン、作家カーディリー、ホジャエフらが次々に逮捕されて処刑された。ベフブーディーはそれより早く、1919年にブハラのアミールの手の者に殺されていた。中央アジアの近代の最初の世代の知識人は、ほとんど全員が命を奪われた。

ソ連の時代、ジャディードの名は長く語られなかった。1991年にソ連が解体すると(ソ連の解体)、独立したウズベキスタンなどでは、彼らは民族の文化を近代へ導いた先駆者として見直され、その著作が読み返されている。宗教を捨てずに社会を近代化するという彼らの試みは、途中で断ち切られた。その問いは、いまもイスラームの世界のあちこちで続いている。

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