人物

ヴラド3世

Vlad III
AD1431年 – AD1476年(享年45・推定)
ワラキア重要度 3

概要

父ヴラド2世は「竜」、ドラクル。息子は「竜の子」、ドラクレア。7年オスマンの人質。父と兄が殺された。三度ワラキア公。貴族を復活祭の宴で串刺しに。オスマンの2万人を串刺しに。ハンガリーに12年幽閉され、戻って2か月で殺された。ルーマニアでは英雄。

関わったできごと(1)

ヴラド串刺し公AD1462年 · 公

本文

ヴラド3世は1431年ごろに生まれた。生まれた場所は、トランシルヴァニアの城塞都市シギショアラだと伝えられている。同じ年、父ヴラドは、ハンガリー王で神聖ローマ皇帝のジギスムントから、オスマン帝国と戦うキリスト教徒の君主たちの騎士団、竜騎士団に迎えられた。竜はルーマニア語でドラクルと言い、父はヴラド・ドラクルと呼ばれた。息子は「竜の子」、ドラクレアと呼ばれた。のちに世界中に知られる名前の始まりである。

父が治めることになったワラキアは、ドナウ川の北、いまのルーマニアの南部にあたる公国で、北のハンガリー王国と、南からバルカン半島を飲み込みつつあったオスマン帝国の二大国に挟まれていた。ワラキアの公は、生き残るために両者の間で揺れ動くしかなかった。1442年、父はオスマンへの忠誠の証として、二人の息子、ヴラドと弟ラドゥを人質としてスルタンの宮廷に差し出した。ヴラドは十代の数年間をアナトリアで過ごし、トルコ語と、オスマンの宮廷と軍の仕組みを身につけた。のちにコンスタンティノープルを攻め落とす(コンスタンティノープル陥落)若きメフメト2世と、同じ時期に同じ宮廷の空気を吸っていたことになる。弟ラドゥはオスマンの宮廷になじみ、のちにはスルタンに支えられて兄と公位を争う。

コンスタンティノープル陥落に関わる図版:Siege of Constantinople fresco, Moldovița monastery, Vatra Moldoviței, 2017
コンスタンティノープル陥落Wikimedia Commons DimiTalen · CC0

1447年、ハンガリーの実力者フニャディ・ヤーノシュがワラキアに攻め込み、父ヴラドは殺された。兄ミルチャは、ワラキアの貴族たちに目を潰され、生き埋めにされたと伝えられる。人質の身から解かれたヴラドは、1448年、オスマンの支援で一度だけ公位に就いたが、わずか数週間で追われた。その後、各地を転々としたのち、1456年、ハンガリーの後ろ盾を得てワラキアの公位を取り戻した。

二度目の治世は6年に及び、ヴラドの名はこのときの行いによって残った。彼は、父と兄を裏切った貴族たちの力を抑え込もうとした。ルーマニアの年代記によれば、彼は復活祭の宴に貴族たちを招き、年老いた者たちを串刺しにし、若い者たちには山の上のポエナリの城を築く重労働をさせたという。罪人や敵を、先を尖らせた杭に突き刺して立てる串刺しの刑は、彼の名と分かちがたく結びつき、のちに彼は「ツェペシュ(串刺し公)」、トルコ人からは「串刺しの君主」と呼ばれた。物乞いや病人を館に集めて焼き殺した、町の泉に金の杯を置いても誰も盗まなかった、ターバンを脱がなかったオスマンの使者の頭に釘で打ちつけた、といった話も数多く伝わっている。ただし、その多くは敵の側が書いた宣伝の文書や、後世の物語に出てくるもので、どこまでが事実かは分からない。

ヴラドはオスマン帝国への貢ぎ物を止め、1461年の冬、ドナウ川沿いのオスマンの拠点を次々に襲った。ハンガリー王マーチャーシュへの手紙で、彼はこの遠征で殺した者を2万3884人と、一の位まで数えて報告している。翌1462年、怒ったメフメト2世は大軍を率いてワラキアに攻め込んだ。ヴラドは正面から戦わず、村を焼き井戸に毒を入れて退きながら、夜、オスマンの陣営に奇襲をかけた。スルタンの天幕を狙ったとも言われるが、討ち取ることはできなかった。都トゥルゴヴィシュテに迫ったオスマン軍は、町の手前で、串刺しにされた何万ものトルコ兵の死体が立ち並ぶ光景に出会い、さすがのスルタンも肝を冷やしたと、ビザンツの歴史家は書いている(ヴラド串刺し公)。

ヴラド串刺し公に関わる図版:Vlad Ţepeş, the Impaler, Prince of Wallachia (1456-1462) (died 1477)
ヴラド串刺し公Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

それでもヴラドは国を保てなかった。オスマンは弟ラドゥを公位に就け、ワラキアの貴族たちもラドゥの側に付いた。ヴラドは北のハンガリーに逃れたが、マーチャーシュ王は彼を捕らえて幽閉した。ヴラドがオスマンと内通したことを示すとされる手紙が理由に挙げられたが、偽物だったと考えられている。幽閉はおよそ12年に及んだ。その間に彼は王の一族の女性と結婚し、カトリックに改宗したとも伝えられ、晩年はブダで家を持つことを許された。

1476年、ヴラドは、モルダヴィアのシュテファン大公とハンガリーの支援を得てワラキアに戻り、三度目の公位に就いた。だが、それはわずか2か月ほどしか続かなかった。その年の暮れ、ブカレストの近くでオスマンの支援を受けた勢力との戦いの中で殺された。首はコンスタンティノープルのスルタンのもとへ送られたと伝えられる。遺体はブカレスト近くのスナゴフ修道院に葬られたという言い伝えがあるが、20世紀に発掘してもそれらしい遺骨は見つからず、別の修道院に葬られたとする説もある。

ヴラド・ツェペシュ(串刺し公)の肖像
ヴラド・ツェペシュ(串刺し公)の肖像Wikimedia Commons Public domain

ヴラドの名は、死後すぐに印刷物に乗ってヨーロッパに広まった。ドイツでは、彼の残虐ぶりを書き立てた小冊子が次々に刷られ、串刺しの人々の間で食事をするヴラドの木版画が人々の目を引いた。ロシアでは15世紀の末、外交官が見聞きした話をもとに『ドラクラ公の物語』が書かれた。そこでは、彼は残酷だが厳しく正義を行う君主として描かれている。

1897年、アイルランドの作家ブラム・ストーカーは、吸血鬼の小説『ドラキュラ』を発表した。ストーカーは、吸血鬼の伯爵の名前を、ワラキアの歴史を書いた本の中で見つけた「ドラキュラ」から取ったと考えられている。だが、伯爵の城があるのはトランシルヴァニアで、ヴラドはワラキアの公だった。ストーカーがヴラドの生涯をどこまで知っていたかははっきりせず、吸血鬼の伯爵は名前を借りただけだという見方が強い。いまルーマニアで「ドラキュラの城」として観光客を集めるブラン城も、ヴラドが住んだという確かな証拠は無い。

ヴラド公の串刺しの様子
ヴラド公の串刺しの様子Wikimedia Commons Public domain

ルーマニアでは、ヴラドは別の姿で記憶されている。強大なオスマン帝国に立ち向かい、腐敗した貴族を罰し、国に秩序をもたらした正義の君主である。19世紀の国民詩人エミネスクは、ある長い詩の結びで、堕落した政治家たちを嘆き、串刺し公よ、よみがえって彼らを罰してくれ、と呼びかけた。残虐な串刺し公と、国を守った英雄。ヴラド3世は、そのどちらでもあり、見る者の立場によって姿を変え続けてきた。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1431年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →