人物

アブドゥルマリク

Abd al-Malik
AD646年 – AD705年(享年59・推定)
ウマイヤ朝重要度 5

概要

第二次内乱の中で685年に即位し、イブン・アッズバイルを倒して帝国を一つにした。アラビア語を行政の言葉に。ギリシア語とペルシア語をやめた。文字だけの金貨ディナール。岩のドーム。ハッジャージュ。「私は、傷から膿を出す」。息子が4人カリフに。

関わったできごと(1)

岩のドームAD691年 · 建てた

本文

646年ごろ、メディナで生まれた。父マルワーンは、第3代カリフのウスマーンの従弟で、その書記として権勢をふるった人物である。656年、ウスマーンがメディナの自宅で反乱者たちに殺されたとき、10歳ほどのアブドゥルマリクはその場に居合わせたと伝えられる。若いころはメディナで学問に励み、法と伝承に通じた学者の一人に数えられた。後に冷徹な権力者として知られる人物は、もとは敬虔な学徒として名を知られていた。

彼の一族が属するウマイヤ家は、661年にムアーウィヤがカリフの位を握って以来(ウマイヤ朝の成立)、ダマスクスを都に帝国を治めていた。しかし680年にムアーウィヤが死ぬと、跡を継いだ息子ヤズィードの正統性に異を唱える声が噴き出した。その年、アリーの子フサインがカルバラーで殺され(カルバラーの悲劇)、メッカでは教友ズバイルの子イブン・アッズバイルがヤズィードに従わなかった。683年にはメディナの人々が反乱を起こし、ウマイヤ家の人々は町から追い出された。アブドゥルマリクも父とともにシリアへ逃れた。これが第二次内乱と呼ばれる長い争いの始まりである。

カルバラーの悲劇に関わる図版:Brooklyn Museum - Battle of Karbala - Abbas Al-Musavi - cropped
カルバラーの悲劇Wikimedia Commons Persian Painter Abbas Al-Musavi. · Public domain

683年の暮れにヤズィードが死に、その幼い子も間もなく亡くなると、ウマイヤ家は存亡の危機に立った。イブン・アッズバイルはカリフを名乗り、ヒジャーズ、イラク、エジプト、さらにシリアの一部までがその側についた。684年、シリアの部族の支持を得た父マルワーンがカリフに推され、マルジュ・ラーヒトの戦いで敵対する部族を破った。しかし翌685年、マルワーンは在位1年足らずで死んだ。妻に枕で押しつぶされたという話も伝わるが、確かではない。こうしてアブドゥルマリクが30代の終わりで位を継いだ。手にしていたのはシリアとエジプトだけだった。

彼は時間をかけて敵を一つずつ片づけた。イラクのクーファでは、フサインの仇討ちを掲げたムフタールが救世主の到来を説いて勢力を広げていたが、687年、イブン・アッズバイルの弟ムスアブがムフタールを滅ぼした。敵どうしがつぶし合うのを待ったアブドゥルマリクは、691年、自ら軍を率いてイラクへ進み、ムスアブを討ち取った。残るは聖地メッカのイブン・アッズバイルだけだった。

ウマイヤ朝カリフ、アブド・アルマリクを描いた金貨
ウマイヤ朝カリフ、アブド・アルマリクを描いた金貨Wikimedia Commons PHGCOM · Public domain

692年、彼はかつて学校の教師だったというハッジャージュを将軍としてメッカに送った。ハッジャージュは町を半年以上も囲み、投石機の石はカアバ神殿にまで届いた。追い詰められたイブン・アッズバイルは、年老いた母アスマーに、降るべきか戦うべきかを尋ねた。母は、正しい道にあると信じるなら最後まで戦えと励ましたと伝えられる。彼は討って出て戦死し、その遺体はさらしものにされた。10年近く続いた内乱は終わり、帝国は再び一人のカリフのもとにまとまった。

ハッジャージュは694年、反乱の絶えないイラクの総督に任じられた。クーファのモスクに入るなり、刈り取られるのを待つ熟した首が見える、と言い放った就任の演説は、恐怖の統治の始まりとして語り継がれている。彼は反乱を容赦なく鎮め、運河を掘り、農地を立て直し、イラクと東方を20年にわたって治めた。アブドゥルマリクにとって、最も頼りになる、そして最も恐れられた片腕だった。

アブドゥルマリクが生まれ育ったマディーナ(1895年のイラスト)
アブドゥルマリクが生まれ育ったマディーナ(1895年のイラスト)Wikimedia Commons Public domain

内乱を終えたアブドゥルマリクは、帝国の形そのものを作り変えた。それまで帝国の役所では、征服前からの役人たちが、シリアやエジプトではギリシア語、イラクやイランではペルシア語で帳簿をつけていた。彼はこれをアラビア語に切り替えさせた。また、ビザンツやササン朝の貨幣をまねて皇帝や王の像を刻んでいた硬貨をやめ、696年ごろから、像を一切入れず、神のほかに神はなく、ムハンマドは神の使徒である、といった信仰の言葉だけを刻んだ金貨ディナールと銀貨ディルハムを作らせた。文字だけの硬貨は、その後のイスラム世界の貨幣の手本となった。同じころ、ビザンツ皇帝ユスティニアノス2世が金貨にキリストの顔を初めて刻ませたのは、これと張り合ったためだと考える研究者もいる。帝国の各地を結ぶ駅伝の制度も整えた。

691年ごろ、エルサレムの神殿の丘に完成した岩のドームも、彼が建てさせたものである(岩のドーム)。ドームの内側には、神は唯一であり、神に子はいないと説くクルアーンの章句が金のモザイクでめぐらされている。キリスト教の聖堂が並ぶ町に、新しい信仰の存在を示す建物だった。イブン・アッズバイルが押さえていたメッカの代わりの巡礼地にしようとしたという説が昔からあるが、これには異論も多い。クルアーンの文字に、読み違いを防ぐための点や記号を加える作業が進められたのも、ハッジャージュの時代だと伝えられる。

705年10月、ダマスクスで60歳前後で亡くなった。位は息子ワリードが継ぎ、ダマスクスの大モスクを建てた。その後もスライマーン、ヤズィード2世、ヒシャームと、4人の息子が次々にカリフとなった。ムアーウィヤが開いたウマイヤ朝は、アブドゥルマリクの家系のもとで最盛期を迎え、帝国は西はイベリア半島から東は中央アジアとインダス川まで広がった(イスラムの大征服)。

イスラムの大征服に関わる図版:Map of expansion of Caliphate
イスラムの大征服Wikimedia Commons DieBuche · Public domain

アラビア語の役所、信仰の言葉を刻んだ硬貨、エルサレムの黄金のドーム。征服者たちの寄り合いだった国を、アラブとイスラムの名で治める帝国に作り変えたことから、彼はウマイヤ朝の「第二の建設者」と呼ばれる。その土台は、多くの血を流した内乱と、ハッジャージュの恐怖の統治の上に築かれていた。

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