アザーン
概要
メディナの信徒が増えると、礼拝の時刻をどう知らせるかが問題になった。キリスト教徒は鐘を鳴らし、ユダヤ教徒は角笛を吹く。ムハンマドはどちらも採らず、人の声で呼ばわることに決めたと伝えられる。最初の呼びかけ手に選ばれたのは、奴隷の身から解かれたエチオピア出身のビラールで、声の良さで選ばれたという。日に五度、決まった文句を、街のいちばん高いところから声を張る。のちにミナレットが建ち、いまは拡声器が使われる。機械は替わったが、届けるのは人の声だという形は残った。
場所
24.47°N 39.61°E · サウジアラビア
関わった人(1)
ムハンマドAD570年頃–AD632年 · 鐘でも角笛でもなく声と定めた本文
イスラームの礼拝は、一日に五度ある。夜明け前、正午を過ぎたころ、午後、日没の直後、そして夜。それぞれの時刻は、太陽の高さや空の明るさで決まる。時計の無い時代には、信徒が銘々に空を見上げて時を判断するしかなかった。一人で祈るならそれでもよい。だが、皆が一か所に集まって並んで祈るには、誰かが「いまだ」と知らせなければならない。
622年、ムハンマドと信徒たちは、迫害の続くメッカを離れ、北のヤスリブ、のちのメディナへ移った(ヒジュラ(聖遷))。メディナには小さなモスクが建てられ、信徒の数は増えていった。人々は町のあちこちに散らばって住み、農地で働く者もいた。銘々の判断で集まってきたのでは、礼拝の時刻がそろわない。礼拝の時をどう知らせるかが、新しい共同体の問題になった。

伝承によれば、ムハンマドと仲間たちはいくつかの方法を話し合った。キリスト教徒のように木の板や鐘を打ち鳴らす。ユダヤ教徒のように角笛を吹く。高いところで火を焚いて遠くからも見えるようにする。どの案も退けられた。他の宗教の人々の合図と同じになってしまう、というのが理由だったと伝えられる。
そのころ、信徒の一人アブドゥッラー・イブン・ザイドが、夢の中で、礼拝へ呼びかける言葉を教えられたと語った。ムハンマドはその言葉を真実の夢として認め、同じ夢を見たと申し出たウマルの話もあって、人の声で決まった文句を呼ばわることが定められたという。623年ごろ、ヒジュラから1、2年のうちのことと考えられている。

鐘や角笛は「何かがある」としか伝えられない。人の声は、何のために、なぜ集まるのかまで伝えられる。呼びかけの文句は、「神は偉大なり」で始まり、神のほかに神はなく、ムハンマドは神の使徒であると証言し、「礼拝に来たれ」「成功に来たれ」と呼びかけ、「神のほかに神はなし」で結ばれる。夜明け前の呼びかけには、「礼拝は眠りにまさる」という一句が加わる。合図であると同時に、それ自体が信仰の告白になっている。
最初の呼びかけ手に選ばれたのは、ビラール・イブン・ラバーフだった。アビシニア(いまのエチオピア)にゆかりを持つ母から、メッカで奴隷として生まれたとされる。イスラームを信じたビラールに、主人は真昼の焼けた砂の上に彼を寝かせ、胸に大きな石を載せて信仰を捨てるよう迫った。ビラールは「唯一、唯一」と神の唯一性を唱え続けたと伝えられる。それを見たアブー・バクル、のちの初代カリフが、彼を買い取って自由の身にした。

ビラールが呼びかけ手に選ばれたのは、声が良く、よく通ったからだとされる。奴隷だった者が、しかもアラブの有力な部族の出ではない者が、町のいちばん高いところに立ち、共同体の全員に向かって声を張る。生まれや身分ではなく信仰と声で役目が決まったこの場面は、のちのムスリムたちにとって、神の前の平等を示す話として語り継がれた。最初の呼びかけは、モスクの近くにあった、いちばん高い家の屋根の上から行われたと伝えられる。まだ塔は無かった。
630年、ムハンマドがメッカに入城したとき(メッカの征服)、ビラールはカアバの屋根に上ってアザーンを呼ばわったと伝えられる。かつて彼を責めさいなんだ町の中心で、元奴隷の声が響いた。632年にムハンマドが亡くなると、ビラールは悲しみのあまり呼びかけをやめたといい、やがてシリアへ移って、ダマスカスで世を去ったとされる。いまもアザーンを呼ぶ人々は、ビラールを自分たちの仕事の祖と仰いでいる。

アザーンを呼ぶ塔、ミナレットが建てられるようになったのは、もっと後のことである。ウマイヤ朝の成立の後、8世紀の初めごろから、ダマスカスなどの大きなモスクに塔が付くようになったとされる。塔が高いほど声は遠くまで届き、遠くからもモスクの場所が分かる。ミナレットは、声を運ぶ設備であると同時に、町の中のイスラームのしるしにもなった。声の届く範囲が、一つのモスクに集まる人々のまとまりを形づくった。町にモスクが増えると、日に五度、いくつもの呼びかけが重なって町を満たすようになる。
20世紀に入ると、拡声器が使われ始め、世紀の半ばには多くのミナレットの上にスピーカーが据えられた。呼びかけ手は塔に登らなくてもよくなり、録音した声を流すモスクも増えた。今度は、声が届きすぎることが問題になる。夜明け前の大きな音が眠りを妨げる、近くのモスクの呼びかけ同士がぶつかり合う、という苦情が出て、音量や流し方を取り決める国や都市も現れた。いくつものモスクの呼びかけを一つにまとめて流す試みも行われている。

それでも、アザーンは人の声であり続けている。楽器でも信号音でもなく、決まった言葉を、人が節を付けて呼ばわる。文句はアラビア語のままで、インドネシアでもトルコでもアフリカでも、同じ言葉が同じ順で呼ばれる。20世紀のトルコでは、一時アザーンをトルコ語で呼ばせる政策がとられたが、人々の反発を受けて、のちにアラビア語に戻された。
何かを大勢に知らせるには、二つのやり方がある。しるしを鳴らすか、言葉を届けるかである。鐘や太鼓やサイレンは、言葉の違う人にも届くが、何かが起きたとしか伝わらない。日本の時の鐘も、時刻だけを告げた。言葉を届ければ中身まで伝わるが、同じ言葉を分かる者にしか届かない。アザーンは、後者を選んだ。だからこそ、世界のどこでも同じアラビア語で呼ばれることが、信徒を一つにつなぐ意味を持った。