できごと

カーディシーヤの戦い

Battle of al-Qadisiyyah
AD636年11月
重要度 5
カーディシーヤの戦いに関わる図版:Depiction of the Battle of al-Qādisiyyah from a manuscript of the Persian epic Shāh-nāmeh. Source- British Library (MS.
Depiction of the Battle of al-Qādisiyyah from a manuscript of the Persian epic Shāh-nāmeh. Source- British Library (MS.  Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

概要

ヤルムークと同じ年、ユーフラテスの西でササン朝の主力が破れた。象の軍と将軍ロスタムが倒れ、翌年クテシフォンが落ちる。ペルシアの帝国は、以後400年、アラブの下に置かれる。

場所

カーディシーヤ位置は特定されていない(誤差 ±km)
31.60°N 44.40°E · イラク

本文

7世紀の初め、ペルシアのササン朝(ササン朝ペルシア)は、東ローマ帝国と四半世紀にわたる大戦争を戦っていた。皇帝ホスロー2世の軍は一時、シリアとエジプトを奪い、コンスタンティノープルの対岸にまで迫った。だが東ローマの皇帝ヘラクレイオスの反撃でペルシアは本土を突かれ、628年、ホスロー2世は自分の息子に倒されて殺された。長い戦争で両帝国はともに疲れ果てていた。

ホスロー2世の死後、ササン朝は混乱に陥った。疫病が広がり、王位をめぐる争いで、4年ほどのあいだに10人前後の王や女王が次々に立っては倒れた。632年、ようやくまだ少年だったヤズデギルド3世が即位したが、実権は有力な貴族や将軍たちが握っていた。ササン朝はまた、それまでアラブの部族との緩衝となっていたアラブの属国ラフム朝を、7世紀の初めに自ら廃止していた。砂漠の側の守りは、手薄になっていた。

同じ632年、アラビア半島ではムハンマドが亡くなった。後を継いだ初代カリフのアブー・バクルのもとで、半島の部族はイスラームの旗の下に再びまとめられ、その力は外へ向かい始めた。633年、名将ハーリド・イブン・アル=ワリードの率いる軍が、ユーフラテス川の下流、ササン朝の豊かな農地の縁を襲った。ハーリドはやがてシリアの戦線に移り、東ローマとの戦いに向かう。

634年、ユーフラテス川を渡ったアラブ軍は、橋の戦いでペルシア軍に大敗した。ペルシア軍は戦象を使い、アラブの指揮官アブー・ウバイドは象に踏みつぶされて死んだ。第2代カリフのウマルは、新たな軍を組織し、ムハンマドの初期からの教友で、早くにイスラームに入った一人であるサアド・イブン・アビー・ワッカースに指揮を任せた。

両軍は、ユーフラテス川の西、いまのイラクの南部のカーディシーヤで向き合った。戦いの年は636年とされることが多いが、635年から638年まで諸説がある。ペルシア軍を率いたのは、将軍ロスタムだった。ペルシア軍の兵の数は、後の史料に誇張された数字が多く、3万から6万程度とみる研究者が多い。後の歴史家タバリーは、象を33頭としている。アラブ軍はそれより少なく、3万ほどとも、もっと少なかったともいう。アラブ軍は砂漠を背にして陣を敷いた。負ければ砂漠へ退けばよく、勝てばイラクの豊かな農地が手に入る。

戦いは、伝えられるところでは3日から4日にわたった。初日、ペルシアの象がアラブの騎兵の馬をおびえさせ、隊列を割った。二日目、シリアから援軍が到着した。東ローマとの戦いを経験した兵たちで、ヤルムークの戦場から送られてきたとも言われる(ヤルムークの戦い)。三日目、アラブの兵は象の目を槍で突き、鼻を切って、象を暴れさせた。狂った象は自軍の中へ逃げ込み、ペルシアの陣を乱した。その夜も戦いは続いた。四日目、砂嵐がペルシア軍の側に吹きつけ、その中でアラブ軍が中央を突破した。ロスタムは荷を積んだラバの陰に身を隠したが、見つかって殺されたと伝えられる。ペルシア軍は崩れた。

ヤルムークの戦いに関わる図版:Hayton BNF886 9v
ヤルムークの戦いWikimedia Commons anonymous Catalonian illustrator · Public domain

カーディシーヤの敗北で、ササン朝はイラクを守る力を失った。翌637年、ティグリス川のほとりの都クテシフォンが陥落した。アラブの兵は、宮殿の財宝の豪華さに目を見張った。王の大広間に敷かれていた巨大な絨毯は、春の庭を金銀と宝石で織り出したもので、「ホスローの春」と呼ばれた。この絨毯は切り分けられてメディナに送られ、戦士たちに配られたと伝えられる。ヤズデギルド3世は東へ逃れた。642年のニハーヴァンドの戦いで再び敗れ、651年、イランの東の果てのメルヴの近くで殺されて、400年あまり続いたササン朝は滅んだ。

イラクの征服は、新しいイスラーム国家の形を作った。ウマルは、征服したイラクの豊かな農地を戦士たちに分け与えず、国家のものとして残すことにした。土地を耕す農民はそのまま暮らし、地租を国家に納める。その税収から、戦士には登録簿に基づいて給与が払われた。この仕組みは、のちのイスラーム国家の財政の型になった。アラブの戦士たちは征服地の住民と混じらず、新しく作られた軍営の町に住んだ。それがイラクのクーファとバスラで、やがて大都市に育つ。のちにアッバース朝は、クテシフォンの廃墟から遠くないティグリス川のほとりに、新しい都を築く(バグダードの建設)。

ペルシアの人びとが、すぐにイスラームに改宗したわけではない。ゾロアスター教の信仰は数世紀にわたって続き、イランの多くの人びとがムスリムになったのは9世紀から10世紀にかけてのことだったと考えられている。ペルシアの言葉と文化も消えなかった。ササン朝の宮廷の儀礼や行政の技術は、アッバース朝のカリフたちに引き継がれた。10世紀にはブワイフ朝のバグダード入城のように、イラン系の王朝がカリフを抱えてバグダードを支配するようになる。

11世紀の初め、詩人フェルドウスィーは、ペルシアの王たちの歴史を詠んだ長大な叙事詩『シャー・ナーメ(王書)』を完成させた。その終わり近くで、カーディシーヤの戦いの前に将軍ロスタムが、星の動きからペルシアの滅びを悟り、嘆く場面が描かれている。征服から400年近くたっても、イランの人びとにとって、この戦いは一つの世界が終わった日として記憶されていた。

同じ時代のできごと

唐の成立AD618年ヒジュラ(聖遷)AD622年アザーンAD7世紀前半イシドルス『語源』AD630年頃ウフドの戦いAD625年3月玄武門の変AD626年7月2日貞観の治AD627年ブラーマグプタのゼロAD628年
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