できごと

ラス・ナバス・デ・トロサの戦い

Battle of Las Navas de Tolosa
AD1212年7月16日
重要度 3
ラス・ナバス・デ・トロサの戦いに関わる図版:Batalla de las Navas de Tolosa, por Francisco van Halen
Batalla de las Navas de Tolosa, por Francisco van Halen Wikimedia Commons Francisco de Paula Van Halen · Public domain

概要

イベリアのイスラム勢力が決定的に後退した。ここからレコンキスタの完了まで280年かかる。

場所

ラス・ナバス・デ・トロサ
38.28°N -3.58°E · スペイン・ハエン県

本文

12世紀の終わり、イベリア半島の南半分は、北アフリカから渡ってきたムワッヒド朝の支配下にあった。マラケシュを都とするこの王朝は、厳格な信仰の改革を掲げ、半島のイスラーム勢力を一つにまとめていた。1195年、カスティーリャの王アルフォンソ8世はアラルコスでムワッヒド軍と戦い、大敗した。トレドの町さえ危ういと思われた(トレドの陥落)。

アルフォンソ8世は雪辱を期した。トレドの大司教ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダが各地を回って支援を求め、1212年、教皇インノケンティウス3世はムワッヒド朝との戦いを十字軍と認めた。参加した者には、聖地へ向かうのと同じ罪の赦しが与えられる。同じ年、フランスやドイツでは、少年たちが聖地を目指して歩き出していた(少年十字軍)。

ラス・ナバス・デ・トロサの記念碑(1881年)
ラス・ナバス・デ・トロサの記念碑(1881年)Wikimedia Commons SuspirodelMoro · CC BY 3.0

6月、トレドに軍が集まった。カスティーリャのほか、アラゴン王ペドロ2世、ナバラ王サンチョ7世が自ら兵を率い、ポルトガルからも騎士が来た。ピレネーの北からも多くの十字軍士が加わったが、途中の城を落としたあと、暑さと、降伏した敵兵を生かして帰したことへの不満から、大半が国へ帰ってしまった。レオンの王は、カスティーリャとの争いから加わらなかった。

ムワッヒドのカリフ、ムハンマド・アン・ナースィルは、大軍を率いて南の山地シエラ・モレナの峠を押さえていた。正面の峠を抜けるのは難しい。言い伝えでは、土地の羊飼いが現れて、敵に知られていない山道を教えたという。キリスト教軍はその道を通って山を越え、ラス・ナバス・デ・トロサの平地に出た。

ラス・ナバス・デ・トロサの戦い(フランシスコ・ファン・ハレン画)
ラス・ナバス・デ・トロサの戦い(フランシスコ・ファン・ハレン画)Wikimedia Commons Francisco de Paula Van Halen · Public domain

1212年7月16日、戦いが始まった。キリスト教軍は三つに分かれて攻めたが、ムワッヒドの前衛の軽騎兵に押し返され、一時は崩れかけた。アルフォンソ8世は死を覚悟して自ら突撃したと、そばにいた大司教ロドリゴが書いている。王たちの突撃でムワッヒドの陣が割れ、カリフの天幕のまわりを固めていた親衛隊も崩れた。言い伝えでは、親衛隊は鎖で互いをつないで守っていたが、ナバラ王サンチョがその鎖を断ち切ったという。ナバラの紋章の鎖は、この話にちなむとされる。

カリフは逃げ、翌年マラケシュで死んだ。両軍の兵力について、当時の記録は数十万という数字を挙げるが、大幅な誇張とされる。実際には双方とも数万以下だったと見る研究者が多い。

戦いの意味は、その後に現れた。ムワッヒド朝は後継争いで弱り、半島の領土をまとめておけなくなった。キリスト教の諸王国は南へ進んだ。アラゴンのハイメ1世が1229年にマヨルカ、1238年にバレンシアを取り、カスティーリャのフェルナンド3世が1236年にコルドバ、1248年にセビリアを落とした。コルドバの大モスクは大聖堂になった(コルドバの大モスク)。戦いに加わったアラゴン王ペドロ2世は、翌1213年、南フランスでアルビジョア十字軍の軍と戦って戦死している。

アルビジョア十字軍に関わる図版:Le massacre des Albigeois
アルビジョア十字軍Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

勝利の知らせは、すぐにローマへ送られた。アルフォンソ8世が教皇に宛てた手紙には、敵は10万を超えて死に、味方の死者は25人か30人だったと書かれている。神の加護を強調する誇張で、そのまま受け取る研究者はいない。王はブルゴスに自ら建てたラス・ウエルガス修道院に戦利品を納め、そこには戦場から持ち帰ったとされる織物がいまも伝わっている。

残ったのは、南の山がちな土地に興ったグラナダのナスル朝だけだった。ナスル朝はカスティーリャに貢ぎ物を払い、ときにはその軍に加わってまで、生き延びた。アルハンブラ宮殿の多くは、この時代に建てられている。グラナダが落ちてレコンキスタの完了となるのは1492年、この戦いから280年後である。

レコンキスタの完了に関わる図版:La Rendición de Granada - Pradilla
レコンキスタの完了Wikimedia Commons Francisco Pradilla y Ortiz · Public domain

イスラーム勢力を半島から追い出す戦いを「レコンキスタ(再征服)」と呼ぶが、この言葉が国民の歴史を語る枠として強く押し出されたのは、19世紀以降のことだとされる。当時の戦いの多くは、キリスト教の王国どうし、イスラームの小王国どうしの争いと入り組んでいて、宗教で分かれた二つの陣営がまっすぐ向き合っていたわけではない。ラス・ナバス・デ・トロサは、その中で、王たちが例外的に手を結んだ戦いだった。

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