ソコト帝国の成立
概要
学者が起こした改革運動が、西アフリカ最大の国になった。イギリスが来るまで一世紀続く。
場所
13.06°N 5.23°E · ナイジェリア
関わった人(1)
ウスマン・ダン・フォディオAD1754年12月15日–AD1817年 · 当人本文
18世紀の終わり、いまのナイジェリア北部には、ハウサ人の王国がいくつも並んでいた。ゴビル、カツィナ、カノ、ザザウ。交易で栄えた城壁の町を持ち、支配者はムスリムを名乗っていた(ハウサ諸都市とカノ)。だが王宮では古くからの霊への祭祀も続き、税は重く、家畜や作物は王の役人に気ままに取り上げられた。
ウスマン・ダン・フォディオは、その土地で育ったフラニ人の学者だった。代々学者を出す家に生まれ、20歳ごろから村々を回って説教を始めた。ハウサの王たちはイスラームの法に反している、と彼は言った。法に無い税を取り、賄賂で裁き、異教の儀礼を続けている。説教はハウサ語やフラニ語の詩の形でも広まり、文字の読めない農民にも届いた。

彼の説教には、当時の学者たちへの批判も含まれていた。妻や娘に読み書きも祈りの作法も教えず、家に閉じ込めておきながら、自分たちは学問を誇っている。それは信仰に反する、とウスマンは書いた。女性も学ぶべきだという主張は、のちの国の姿に影響を残す。
王たちの側から見れば、彼は危険な存在だった。ゴビルの王ナファタは1790年代、生まれながらのムスリム以外の改宗を禁じ、男がターバンを巻くことも女が顔を覆うことも禁じる布告を出したとされる。ウスマンの信徒を、目に見える印で見分けて抑えるためである。

ゴビルの王は、はじめ彼を宮廷に招いて利用しようとした。だが信徒の集団が大きくなると、締めつけに転じた。1804年2月、ウスマンは弟子たちを連れてグドゥという土地へ移った。預言者ムハンマドのメディナへの移住になぞらえた行動で、ここで彼は信徒の長に推され、ジハードを宣言した。同じ年、数で劣るジハード軍がゴビルの軍を破った。
戦いは数年続いた。加わったのは、王の重税に苦しむハウサの農民、放牧地をめぐって王と争っていたフラニの牧畜民、そして各地の学者たちだった。1808年にゴビルの都アルカラワが落ち、ほかの王国も次々に倒れた。それぞれの土地には、ウスマンから旗を受けた指揮官が首長(エミール)として立った。カノ、ザリア、カツィナ、さらに東のアダマワまで、数十の首長国が一つの権威の下に並んだ。

ウスマン自身は統治をほとんど息子と弟に任せ、書くことに戻った。息子のムハンマド・ベッロが1809年ごろソコトの町を築いて東半分を、弟のアブドゥッラーヒが西半分を受け持つ。ウスマンは1817年に死ぬが、三人が残した著作はアラビア語とハウサ語、フラニ語で数百に上るとされる。学問の運動から生まれた国は、19世紀の西アフリカで最も大きな国になった。
ウスマンの娘ナナ・アスマウも、多くの詩と書物を残した。彼女は「ジャジ」と呼ばれる女性の教師を育て、その教師が村々の女たちを集めて学ばせる網を作った。集まった女たちは「ヤン・タル」と呼ばれ、その名と仕組みはいまもナイジェリア北部の女性教育に受け継がれている。

国の仕組みは、イスラーム法に沿って整えられた。首長は裁判官を置き、法に定められた税を取り、毎年ソコトに貢ぎ物を送る。ベッロ自身も歴史書や医学書まで書いた学者で、1824年と1826年にはイギリスの探検家ヒュー・クラッパートンが彼を訪ね、その教養に驚いた記録を残している。クラッパートンは二度目の滞在中に、ソコトの近くで病死した。
一方で、この国は戦争で捕らえた人びとを奴隷として大量に抱え、農園で働かせてもいた。周辺の非ムスリムの土地への襲撃も続いた。学問を重んじた国と、奴隷に支えられた国は、同じ国の二つの顔である。

アフリカ分割の波は、ここにも来た。1903年、フレデリック・ルガードの率いるイギリス軍がカノとソコトを落とした。だがイギリスは首長国を壊さなかった。首長に税と裁判を任せたまま、その上に立って支配する。少ない人員で広い土地を治めるこのやり方は「間接統治」と呼ばれ、イギリスがアフリカの各地で使う型になった。ソコトのスルタンの位はいまも続き、ナイジェリアのムスリムの精神的な長として扱われている。