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Person / 人

イブン・サウード

Ibn Saud
AD1875年頃 – AD1953年11月9日(享年78・推定)
サウジアラビア重要度 5

概要

アブドゥルアズィーズ・イブン・アブドゥッラフマーン・アール・サウード。ナジュドのサウード家(18世紀からワッハーブ派と組んで2度国を作り、2度潰された)。クウェートで亡命。1902年、リヤド。1913年、ハサー。1925年、メッカ。1932年、王国。1938年、石油。1945年、スエズ運河でローズヴェルトと。妻は22人以上、息子45人。それから王は全部、彼の息子(2015年からは孫)。身長2メートル。

関わったできごと(2)

イブン・サウードのリヤド奪還AD1902年1月15日 · 奪ったダンマーム7号井AD1938年3月4日 · 栓を開けた

本文

アブドゥルアズィーズ・イブン・アブドゥッラフマーン・イブン・ファイサル・アール・サウード。1875年頃(1880年とも)、リヤド。父アブドゥッラフマーンは第二次サウード国の最後の首長。1891年、クウェートへ。ムバーラク・アル・サバーフ(1896年に兄を殺してクウェートの首長になった)の宮廷で育った。政治を見た。イギリスの政務官を見た。

1902年、リヤド。1904年、ラシード家をブカイリーヤで。1906年、ラシード家の首長が戦死した。1913年、ハサー(オスマンの守備隊を追い出した)。イギリスはクウェートとバーレーンとオマーンの海岸を持ち、内陸に興味がなかった。1915年、ダーリーン条約(イギリスの保護の下、年6万ポンド)。第一次大戦で、フサイン(メッカ)がイギリスの主な相手で、イブン・サウードは脇。

イフワーン。1912年、最初のヒジュラ(アルタウィーヤ)。ベドウィンを定住させ、ワッハーブ派の教えを教え、戦士に。「兄弟」。白い衣、髭を伸ばし、口ひげを剃り、頭に白い布。喫煙、音楽、写真、電信を憎んだ。1920年代、6万人。ラクダと馬で、夜明けに襲った。1924年、ターイフで住民を殺した。フサインは退位して息子アリーに、アリーは1925年12月にジッダを渡した。1926年、ヒジャーズの王。1927年、ジッダ条約(イギリスが独立を承認)。1929年、イフワーンが彼に反乱した。イギリスの領土(イラク、トランスヨルダン)を襲うのを止めたから、そして、自動車と電信を使ったから。サビラ(3月29日)。機関銃で潰した。1930年、指導者は降伏して獄で死んだ。「剣で国を作り、剣を折った」。

1932年9月23日、王国。人口300万、収入は巡礼だけ。1933年、SOCALと。1938年、石油。1939年、第二次大戦。中立、やがて連合国。1945年2月、ローズヴェルト。翌日、チャーチルとも会った(チャーチルは葉巻を吸い、王は嫌った)。1945年、国連とアラブ連盟の創設メンバー。1948年、イスラエルに軍を送った(少し)。

妻。ワッハーブ派の教えで4人までだが、離婚して次を娶って、生涯に22人以上。部族との同盟の道具。息子45人(成人したのは36人)、娘は数え切れない。長男トゥルキーは1919年にスペイン風邪で死に、次男サウードが後継者。

1953年11月9日、ターイフで死んだ。78歳頃。リヤドのアル・ウード墓地に、標なしで(ワッハーブ派の教え)。

サウード(1953〜64年、廃位)、ファイサル(1964〜75年、甥に撃たれた)、ハーリド(1975〜82年)、ファハド(1982〜2005年)、アブドゥッラー(2005〜15年)、サルマーン(2015年〜)。全部、息子。孫のムハンマド・ビン・サルマーンが2017年から皇太子。