イブン・サウード
概要
アブドゥルアズィーズ・イブン・アブドゥッラフマーン・アール・サウード。ナジュドのサウード家(18世紀からワッハーブ派と組んで2度国を作り、2度潰された)。クウェートで亡命。1902年、リヤド。1913年、ハサー。1925年、メッカ。1932年、王国。1938年、石油。1945年、スエズ運河でローズヴェルトと。妻は22人以上、息子45人。それから王は全部、彼の息子。身長2メートル。
関わったできごと(2)
イブン・サウードのリヤド奪還AD1902年1月15日 · 奪ったダンマーム7号井AD1938年3月4日 · 栓を開けた本文
イブン・サウード、正式にはアブドゥルアズィーズ・イブン・アブドゥッラフマーン・アール・サウードは、1875年ごろ、アラビア半島の内陸ナジュドの町リヤドに生まれた。生年は1876年とも1880年ともいわれ、はっきりしない。

サウード家は、18世紀の半ばに、厳格なイスラム改革を説く学者ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブと手を結んだ一族である。宗教の権威はワッハーブの家に、政治と軍事はサウード家に、という盟約のもとで、一族は二度、半島の大半に及ぶ国を作った。一度目の国は1818年、オスマン帝国の命を受けたエジプト軍に滅ぼされた。二度目の国も一族の内紛で弱り、1891年、北のハーイルを本拠とするラシード家にリヤドを奪われた。
少年アブドゥルアズィーズは、首長だった父アブドゥッラフマーンに連れられて砂漠を逃げ、ペルシア湾岸のクウェートに身を寄せた。クウェートでは1896年、ムバーラク・アル・サバーフが兄弟を殺して首長の座に就いた。ムバーラクはオスマン帝国とイギリスを天秤にかけ、1899年にイギリスと秘密の保護条約を結んだ。若いアブドゥルアズィーズは、その宮廷で、砂漠の政治が海の向こうの大国とどう結びついているかを間近に見た。

1902年1月、20代半ばの彼は、わずか数十人の仲間を連れて夜のリヤドに忍び込み、ラシード家の総督を城の門前で討ち取って町を取り戻した(イブン・サウードのリヤド奪還)。この一夜の奇襲は、のちに王国の始まりの物語として繰り返し語られることになる。その後もラシード家とそれを支えるオスマン軍との戦いが続き、1906年、ラシード家の首長が戦死して、ナジュドの大半が彼のものになった。1913年には、ペルシア湾岸のハサー地方からオスマン帝国の守備隊を追い出し、海への出口を得た。
第一次世界大戦が始まると、イギリスは彼を味方につけるため、1915年に条約を結んで、保護と月々の補助金を与えた。ただ、イギリスがアラブの反乱の相手に選んだのは、メッカの太守フサイン・イブン・アリーだった。フサインの一族は戦後、イラクとトランスヨルダンの王位を得た。イブン・サウードは脇役に置かれたが、そのあいだに足元を固めていた。

彼の力の源の一つは「イフワーン(兄弟たち)」と呼ばれる集団だった。1912年ごろから、遊牧の民を農業の入植地に定住させ、ワッハーブ派の教えを叩き込み、戦士として組織した。彼らは口ひげを剃り、短い衣を着て、たばこや音楽、写真、電信を異端の新奇なものとして憎んだ。ラクダと馬で砂漠を駆け、夜明けに襲いかかるイフワーンの軍は恐れられた。
1924年、イフワーンはヒジャーズの町ターイフに攻め入り、住民の多くを殺した。恐れた人々がメッカから逃げ、フサインは退位した。同じ年、イブン・サウードはメッカに入り、翌1925年末には港町ジッダも明け渡された。1926年、彼はヒジャーズの王となり、二つの聖地を手に入れた。1927年、イギリスは条約で彼の国の独立を認めた。

だが、聖地と国際関係を抱えた王と、異教徒との戦いを望むイフワーンとの間には亀裂が広がった。王が、イギリスの委任統治下のイラクやトランスヨルダンへの襲撃を禁じ、自動車や電信、電話を取り入れたことに、イフワーンの指導者たちは反発し、ついに王に刃を向けた。1929年3月、サビラの戦いで、王は機関銃と自動車を使って彼らを打ち破った。指導者たちは降伏し、獄中で死んだ。自分の国を作った剣を、自分の手で折った形になった。
1932年9月23日、ナジュドとヒジャーズを合わせて、一族の名を冠したサウジアラビア王国が成立した。国は貧しく、収入の大半はメッカ巡礼に来る人々からのものだった。世界恐慌で巡礼が減ると財政は行き詰まった。1933年、王はアメリカのスタンダード・オイル・オブ・カリフォルニアに石油探査の利権を与えた。何年も掘り当てられないまま、1938年3月、東部のダンマームでついに大量の石油が噴き出した(ダンマーム7号井)。

第二次世界大戦のあいだ、王国は中立を保ち、末期に連合国側に立った。1945年2月、ヤルタ会談の帰りのフランクリン・ローズヴェルトは、スエズ運河のグレート・ビター湖に停泊したアメリカの巡洋艦クインシーの上で王と会った。アメリカが王国の安全に関心を持ち、王国はアメリカに石油を、という関係の出発点とされる会談である。数日後にはチャーチルとも会った。チャーチルは、王の前でたばこと酒を控えるよう求められたが、自分の信条だと言って譲らなかったと書き残している。同じ年、王国は国際連合の成立とアラブ連盟の創設に加わり、1948年にはイスラエルの建国に続く戦争に部隊を送った。
王は190センチを超える長身で、堂々とした体躯だったと伝えられる。イスラムの教えでは同時に持てる妻は4人までだが、彼は離婚と再婚を繰り返し、生涯の妻は20人を超えた。各地の部族や名家から妻を迎えることは、同盟を結ぶための政治でもあった。息子は40人を超え、娘はさらに多い。長男トゥルキーは1919年にスペイン風邪で死に、次男のサウードが後継ぎになった。

晩年の王は病と老いで衰え、石油の富が流れ込み始めた国の変化を見届けることはできなかった。1953年11月9日、ターイフで死んだ。70代の後半だった。遺体はリヤドの墓地に、ワッハーブ派の教えに従って墓標を立てずに葬られた。
彼の死後、王位は兄から弟へと、彼の息子たちのあいだで受け継がれた。サウード、ファイサル、ハーリド、ファハド、アブドゥッラー、そして2015年に即位したサルマーン。王国の名にも、国の形にも、彼の一代の征服がそのまま残っている。2017年には、サルマーンの子、つまり彼の孫にあたるムハンマド・ビン・サルマーンが皇太子に立てられ、王位は初めて孫の世代へ渡ろうとしている。