ヒジュラ(聖遷)
概要
ムハンマドがメッカからメディナへ移り、信仰の共同体を築いた。イスラム暦の元年になる。
場所
24.47°N 39.61°E · サウジアラビア
関わった人(1)
ムハンマドAD570年頃–AD632年 · 当人本文
ムハンマドは570年ごろ、アラビア半島西部の商業都市メッカで、有力なクライシュ族のハーシム家に生まれた。幼いころに両親を亡くし、祖父と叔父アブー・ターリブに育てられた。成長すると隊商の交易に携わり、年上の裕福な未亡人ハディージャと結婚した。
メッカの中心には、カアバと呼ばれる神殿があった。アラビア各地の部族の神々の像が祀られ、毎年多くの巡礼者が訪れた。巡礼は市を伴い、メッカの商人たちに富をもたらしていた。一方で、商業で豊かになる者と取り残される者の差は広がり、部族の昔ながらの助け合いは崩れつつあった。

610年ごろ、40歳前後になっていたムハンマドは、メッカ郊外のヒラー山の洞窟にこもって瞑想していたとき、天使ジブリール(ガブリエル)を通じて神の啓示を受けたとされる。その後も啓示は続き、のちにクルアーン(コーラン)としてまとめられた。ムハンマドは、唯一の神アッラーへの帰依と、終末の審判、貧しい者への施しを説いた。
最初に信じたのは、妻のハディージャ、いとこのアリー、友人のアブー・バクルら、身近な人々だった。メッカの有力者たちの多くは、この教えを敵視した。多くの神々を否定する教えは、カアバへの巡礼とそれがもたらす富を脅かし、先祖の生き方を否定するものに見えたからである。身分の低い信徒や奴隷の信徒は激しい迫害を受け、615年ごろには一部の信徒が紅海を渡り、キリスト教の王国アクスムに逃れている。

619年ごろ、ムハンマドは妻ハディージャと、叔父アブー・ターリブを相次いで失った。アブー・ターリブは信徒ではなかったが、一族の長としてムハンマドを守ってきた。後ろ盾を失ったムハンマドは、メッカで命の危険にさらされるようになった。
そのころ、メッカの北約350キロのオアシスの町ヤスリブでは、アウス族とハズラジュ族という二つのアラブの部族が長く争っていた。巡礼でメッカに来たヤスリブの人々の中に、ムハンマドの教えを受け入れる者が現れた。620年から622年にかけて、彼らはメッカ郊外でムハンマドに会い、信仰と、ムハンマドを守ることを誓った。ヤスリブの人々は、部族の外にいる人物に、争いを裁く調停者になってほしいと考えていた。
622年、信徒たちは目立たないように少しずつヤスリブへ移っていった。最後にムハンマドとアブー・バクルが、追っ手を避けてメッカを抜け出した。二人は近くの山の洞窟に3日間身を潜め、遠回りの道をたどってヤスリブに着いた。洞窟の入り口に蜘蛛が巣を張り、追っ手が中に人はいないと思い込んだという話も伝わっている。この移住をヒジュラと呼ぶ。
ヤスリブはやがて「預言者の町」を意味するマディーナ・アンナビー、略してメディナと呼ばれるようになった。ムハンマドはここでモスクを建て、メッカから移ってきた人々と、メディナで迎えた人々を兄弟の契りで結んだ。町の諸部族やユダヤ教徒の部族とのあいだでは、互いの権利と義務、争いの裁き方を定めた取り決めを結んだとされる。メディナ憲章と呼ばれるもので、その中身がどこまで当時のものかには議論がある。

この移住が起点とされたのは、ここで初めて信仰が一つの共同体の形を取ったからだ。血のつながった部族ではなく、同じ神を信じることでまとまる集団、ウンマが生まれた。ムハンマドは預言者であると同時に、裁き手であり、立法者であり、やがて軍の指揮者にもなった。宗教と政治が、最初から一つになっていた。
メディナに移った後、メッカとの対立は戦いになった。624年のバドルの戦いでは、少ない兵で勝った。翌年のウフドの戦いでは苦戦し、627年にはメッカ側の大軍の包囲を、町の周りに掘った塹壕で退けた。628年にはメッカと和議を結び、630年、ムハンマドはほとんど戦わずにメッカへ入った。メッカの征服で、ムハンマドはカアバの神々の像を壊し、カアバを唯一の神の神殿にした。632年、ムハンマドはメディナで亡くなった。

暦の元年をヒジュラの年に置くことを決めたのは、ムハンマドの死後、第2代カリフのウマルで、ヒジュラから十数年後のことだった。啓示が始まった年でも、預言者が生まれた年でもなく、共同体ができた年を数え始めにしたのである。元年の初めは、ヒジュラの日そのものではなく、その年の最初の月の1日とされ、ユリウス暦の622年7月16日にあたる。イスラーム暦は月の満ち欠けによる暦で、1年は約354日しかないため、太陽の暦とは少しずつずれていく。
ムハンマドの死後、共同体を率いたカリフたちのもとで、イスラムの大征服が始まった。カリフの軍は、ビザンツ帝国からシリアとエジプトを奪い、ササン朝ペルシアを倒した。661年のウマイヤ朝の成立を経て、711年には西でイベリア半島に、東でインダス川の流域に達した。ヒジュラから100年たらずで、メディナの小さな共同体は、大西洋から中央アジアにまたがる世界になっていた。