アブデュルハミト2世
概要
1876年、憲法を約束して即位し、翌年、ロシアとの戦争を理由に議会を閉じた。30年。専制。密偵と検閲。同時に、鉄道(ヒジャーズ鉄道)、学校、電信、汎イスラーム主義(カリフとして)。1894〜96年、アルメニア人虐殺(「赤いスルタン」)。ヘルツルがパレスチナを買いたいと言って、断った。1908年、憲法復活、1909年、廃位。テッサロニキで幽閉。木工と探偵小説。
所属
オスマン帝国関わったできごと(1)
青年トルコ革命AD1908年7月24日 · 憲法を復活させられた本文
アブデュルハミト2世は、1842年9月21日、イスタンブールのチュラーン宮殿で、スルタンのアブデュルメジト1世の子として生まれた。母はチェルケス出身の後宮の女性で、彼が幼いうちに結核で死に、父の別の妃ペレストゥに育てられた。兄弟が多く、帝位からは遠い王子だった。人前に出るより、一人で本を読み、木工の細工をするのを好んだといわれる。

父の治世は、西欧にならって法と行政を作り変える「タンジマート(再編)」の時代だった。だが改革は財政の破綻を招き、帝国はヨーロッパの銀行からの借金に頼るようになった。1867年、叔父のスルタン、アブデュルアズィズがパリ万国博覧会を見に行き、ロンドンやウィーンを回ったとき、アブデュルハミトも随行した。オスマンのスルタンが戦争以外で外国を訪れたのは初めてのことで、若い王子はヨーロッパの国力をその目で見た。
1876年、帝国は激しく揺れた。財政が行き詰まり、バルカンでは反乱が相次いだ。5月30日、改革派の大臣ミドハト・パシャらが宮廷クーデターでアブデュルアズィズを廃位した。数日後、前スルタンは手首を切って死んでいるのが見つかり、自殺と発表されたが、殺されたと疑う声も強かった。後を継いだ兄ムラト5世は、相次ぐ衝撃で精神を病み、3か月で退けられた。8月31日、34歳のアブデュルハミトが即位した。即位にあたって、彼はミドハトに憲法を出すと約束していた。

1876年12月23日、オスマン帝国で初めての憲法が公布された。その日、イスタンブールでは列強の代表がバルカンのキリスト教徒の扱いを話し合う会議を開いていた。祝砲が鳴り響く中、オスマンの代表は、帝国はすでに自ら改革したので、外から口を出される理由はない、と告げた。1877年3月、初めての議会が開かれた。だが4月、ロシアが宣戦し、オスマン軍は敗れ、ロシア軍はイスタンブールの目前にまで迫った。1878年2月、スルタンは議会を閉じた。憲法は廃止されず、ただ議会が30年間招集されなかった。ミドハトはこれより前に国外に追放され、のちに前スルタン殺害の罪で裁かれ、アラビアのターイフの獄に送られて、1884年にそこで殺された。
1878年のベルリン会議で、帝国はバルカンの広い領土を失った。1881年には、債権国の代表が帝国の主な税の収入を直接管理するオスマン債務管理局が置かれ、翌年にはエジプトがイギリスに占領された。帝国の周りから領土と主権が削り取られていく中で、アブデュルハミトは、自分の手ですべてを握ることでしか国を守れないと考えるようになった。

彼は町の中心のトプカプ宮殿もボスポラス海峡の岸のドルマバフチェ宮殿も離れ、丘の上の木立に囲まれたユルドゥズ宮殿に住んだ。帝国中に密偵の網を張りめぐらし、その報告を自ら読んだ。新聞と本は厳しく検閲され、危険な連想を生むという理由で、さまざまな言葉が使えなくなった。スルタンの大きな鼻を思わせるので「鼻」という語が禁じられた、という話まで伝わるが、これは誇張された逸話とされる。暗殺を恐れて、毎晩違う部屋で眠ったともいわれる。1905年7月21日、金曜の礼拝のあと、アルメニア人の革命組織が仕掛けた馬車の爆弾が爆発し、20人を超える人が死んだが、スルタンは知人と立ち話をして出るのが遅れ、無傷だった。
一方で、彼の治世は近代化が最も進んだ時代でもあった。小学校から高等教育まで学校を全国に建て、女子の学校も増やし、1900年には帝国大学にあたる学校を開いた。官僚と軍人を育てる学校が整い、のちに彼を倒す青年将校たちも、そこから出てくることになる。電信網が帝国の隅々まで引かれ、ドイツの資本でアナトリアを横切る鉄道が延びた。彼は写真を好み、帝国の学校や病院、兵舎を写した数十冊のアルバムを、アメリカとイギリスに贈って近代化を宣伝した。

彼はまた、自らが全世界のムスリムの長、カリフであることを強く打ち出した。インド、中央アジア、東南アジア、アフリカのムスリムに呼びかけ、イギリスやロシアの支配下にいるムスリムの心をつかもうとした。その象徴が、シリアのダマスクスから聖地メディナまで砂漠を貫くヒジャーズ鉄道である。1900年に着工し、建設費の多くを世界のムスリムからの寄付でまかない、1908年に開通した。巡礼の旅は何週間もかかるものから数日のものになった。
その裏で、帝国の東部では惨劇が起きた。1894年から1896年にかけて、アルメニア人の住む地方で、クルド人の非正規騎兵隊などによる大規模な殺戮が続いた。死者の数は8万人から30万人まで、推計によって大きく違う。ヨーロッパでは彼は「赤いスルタン」と呼ばれ、イギリスの政治家グラッドストンは「大暗殺者」と非難した。この迫害は、のちのアルメニア人虐殺へとつながる前史に位置づけられている。

シオニズム運動の指導者ヘルツルは、帝国の借金を肩代わりする代わりに、パレスチナにユダヤ人の入植地を認めてほしいと働きかけ、1901年にはスルタンに謁見した。スルタンは、たとえ体を切り刻まれても、帝国の土地は手放さないという意味の言葉を返したと、ヘルツルの側の記録に伝えられている。
1908年7月、マケドニアの青年将校たちが蜂起し、スルタンは憲法の復活と議会の再開を受け入れた(青年トルコ革命)。翌1909年4月、イスタンブールでイスラム法の復活を叫ぶ兵士たちの反乱が起きた。スルタンがこれを仕組んだのかどうかは分かっていない。マケドニアから進軍してきた軍が反乱を鎮め、4月27日、議会はアブデュルハミトの廃位を決めた。

彼は家族とともに、マケドニアのテッサロニキの館に幽閉された。1912年、バルカン戦争でテッサロニキがギリシア軍に脅かされると、イスタンブールのベイレルベイ宮殿に移された。幽閉の日々、彼は家具や細工物を作り、翻訳させた探偵小説を読んで過ごした。シャーロック・ホームズの愛読者だったと伝えられる。1918年2月10日、第一次世界大戦の敗戦の直前に死んだ。75歳だった。帝国は彼の死から4年あまりで滅びた。
トルコでは、彼の評価は今も二つに分かれている。自由を奪った専制君主「赤いスルタン」としての顔と、列強に囲まれた帝国を30年守り、近代化を進めた最後の偉大なスルタンとしての顔である。近年のトルコでは後者の像が好まれ、彼の治世を描いたテレビドラマも作られた。