← 地図で見る
Person / 人

アブデュルハミト2世

Abdul Hamid II
AD1842年9月21日 – AD1918年2月10日(享年75)
オスマン帝国重要度 5

概要

1876年、憲法を約束して即位し、翌年、ロシアとの戦争を理由に議会を閉じた。30年。専制。密偵と検閲。同時に、鉄道(ヒジャーズ鉄道)、学校、電信、汎イスラーム主義(カリフとして)。1894〜96年、アルメニア人虐殺(「赤いスルタン」)。ヘルツルがパレスチナを買いたいと言って、断った。1908年、憲法復活、1909年、廃位。テッサロニキで幽閉。木工と探偵小説。

所属

オスマン帝国

関わったできごと(1)

青年トルコ革命AD1908年7月24日 · 憲法を復活させられた

本文

1842年、イスタンブール。アブデュルメジト1世の子。母ティリミュジギャン(チェルケス人)は彼が7歳のとき死んだ。叔父アブデュルアズィズ(1861〜76年)と、1867年、ヨーロッパへ(パリ万博、ロンドン、ウィーン。オスマンのスルタンで初めて外国へ)。1876年5月30日、アブデュルアズィズが廃位され(ミドハト・パシャらの宮廷クーデター)、6月4日、鋏で手首を切って死んだ(自殺と発表、殺されたとも)。兄ムラト5世が即位して、3か月で精神を病んで、8月31日、アブデュルハミト。34歳。

ミドハトに憲法を約束した。12月23日、憲法(カーヌーン・イ・エサースィー)。イスタンブール会議(列強がバルカンの改革を協議していた)の日に、大砲を撃って発表した。「改革はもうした」。1877年3月、議会。4月、ロシアが宣戦。1878年2月、議会を閉じた(憲法は「停止」でなく、招集しないだけ)。ミドハトは追放、1881年、裁判で死刑、減刑、ターイフの獄で1884年、絞殺された。

30年。ユルドゥズ宮殿(ボスポラスの丘の上。トプカプもドルマバフチェも捨てた)。密偵(ジュルナルジ。報告書「ジュルナル」)。検閲(「鼻」という言葉が禁じられた。スルタンの鼻が大きかったから、と言う。「星」も)。爆弾を恐れ、毎日違う部屋で寝た。1905年7月21日、アルメニア革命連盟の爆弾(金曜礼拝の帰りに。26人死亡、彼は遅れて無事)。

同時に、近代化。学校(小学校、中学校、職業学校、女学校。就学者が5倍)、大学(1900年、ダーリュルフュヌーン)、鉄道(アナトリア鉄道、バグダード鉄道の始まり、ヒジャーズ鉄道1900〜08年。ダマスクスからメディナへ、ムスリムの寄付で)、電信、写真(帝国の写真集をアメリカとイギリスに贈った)、博物館、時計塔。

汎イスラーム主義。カリフとして、インド、中央アジア、東南アジア、アフリカのムスリムに呼びかけた。イギリスとロシアの中のムスリムへ。アフガーニーを招いて、幽閉した。

1894〜96年、アルメニア人虐殺。サスン、ゼイトゥン、イスタンブール。ハミディイェ連隊(クルド人の騎兵)。8万〜30万人。「赤いスルタン」(グラッドストン。「大暗殺者」)。ヘルツルは1896年と1901年に会って、オスマンの債務の肩代わりと引き換えにパレスチナを求め、「私の生きている間は、体を切り刻まれても、パレスチナは売らない」。

1908年7月、憲法復活。1909年4月13日、反革命(3月31日事件、ルーミー暦で)。彼が仕組んだかは分からない。4月27日、廃位。テッサロニキのアラティニ邸に幽閉。1912年、バルカン戦争でテッサロニキが危なくなって、イスタンブールのベイレルベイ宮殿へ。木工(家具を作った)、探偵小説(シャーロック・ホームズをトルコ語で読ませた)。1918年2月10日、死んだ。75歳。

トルコでは、「赤いスルタン」と「偉大なハーン(ウル・ハーカーン)」の両方。エルドアンは後者を好む。2017年のテレビドラマ『首都の幕(パイタフト・アブデュルハミト)』。