ルッジェーロ2世のシチリア王国

概要
ノルマンの傭兵の孫が、対立教皇から王冠を得て、パレルモでシチリア王になった。ギリシア人、アラブ人、ノルマン人、ユダヤ人の役人。アラビア語とギリシア語とラテン語の文書。イドリーシーに世界地図を作らせた。ヨーロッパで最も豊かで最も混ざった王国。
場所
38.12°N 13.36°E · イタリア・シチリア州
関わった人(1)
ルッジェーロ2世AD1095年12月22日–AD1154年2月26日 · 王本文
11世紀のはじめ、ノルマンディーのコタンタン半島に、オートヴィルの小領主タンクレードがいた。彼には12人の息子がいたが、分けてやる土地はなかった。息子たちの多くは南イタリアへ渡り、ビザンツ帝国、ランゴバルド人の諸侯、イスラーム教徒が入り乱れて争う土地で、傭兵として腕を売った。その中で頭角を現したのが、「狡猾な」と呼ばれたロベール・ギスカールである。彼は南イタリアの土地を次々に奪い、1059年、教皇からアプーリアとカラブリアの公として認められ、いずれシチリアも与えると約束された。
シチリア島は、9世紀から200年あまり、イスラーム教徒の支配の下にあった。1061年、ロベールの末の弟ルッジェーロが海峡を渡ってメッシーナを取り、1072年には兄弟でパレルモを落とした(ノルマンのパレルモ征服)。島の征服を終えたのは1091年で、30年かかった。ルッジェーロ1世は「大伯」と呼ばれ、島のギリシア人とアラブ人の暮らしと信仰をおおむね保ったまま、征服者として治めた。

ルッジェーロ1世は1101年に死んだ。跡を継いだ長男シモーネも幼くして死に、1105年、次男のルッジェーロ2世が10歳ほどで伯となった。母のアデライデが摂政を務め、宮廷にはギリシア人やアラブ人の役人がいた。ルッジェーロ2世はこうした環境で育ち、ギリシア語とアラビア語にも親しんだとされる。1112年に自ら政治をとり始め、都をパレルモに置いた。
1127年、ロベール・ギスカールの孫でアプーリア公のグリエルモが跡継ぎなく死ぬと、ルッジェーロは南イタリアの本土の領地も継ぐと主張し、反対する諸侯と教皇を力でねじ伏せて、1128年、教皇にアプーリア公として認めさせた。1130年、教皇の選挙が割れて、インノケンティウス2世とアナクレトゥス2世の二人の教皇が並び立った。ルッジェーロはアナクレトゥスを支持し、その見返りに、9月27日、シチリアとカラブリアとアプーリアを合わせた王国の王位を認める教書を得た。

1130年12月25日、パレルモの大聖堂で、ルッジェーロ2世はシチリア王として戴冠した。ノルマンの傭兵の孫が王になったのである。だが、ヨーロッパの多くの君主と教会はインノケンティウスを正しい教皇と認め、ルッジェーロの王位も認めなかった。神聖ローマ皇帝が南イタリアに兵を送り、反乱が続いた。1139年、ルッジェーロはミニャーノでインノケンティウス2世その人を戦場で捕らえ、王位を認めさせた。王国は形の上では教皇の封土だったが、王は、祖父の代からの特権として、教皇の代理を兼ねて自国の教会を取り仕切った。
ルッジェーロ2世の王国は、ヨーロッパで最も豊かで、最も混じり合った国の一つだった。財政を扱う役所は、イスラーム教徒の時代の仕組みを受け継いでディーワーンと呼ばれ、文書はアラビア語でも書かれた。勅許状はラテン語、ギリシア語、アラビア語で出された。海軍を率いたのはシリアのアンティオキア出身のギリシア人ゲオルギオスで、「アミールの中のアミール」という称号を持っていた。1140年、王はアリアーノで法典を定め、王国の諸民族にそれぞれの慣習の法を認めつつ、王の法を上に置いた。
王国は海の向こうにも手を伸ばした。1146年から48年にかけて、ルッジェーロの艦隊は北アフリカのトリポリやマフディーヤを取り、王は「アフリカ王」を名のった。1147年にはギリシアを襲い、テーバイやコリントスから絹織物の職人を連れ帰って、パレルモの王の工房で働かせたと伝えられる。その工房で1133年から34年にかけて作られた王の戴冠のマントは、赤い絹に金糸で獅子が駱駝を倒す図を刺繍し、縁にアラビア文字の銘を入れたもので、のちに神聖ローマ皇帝の戴冠に使われ、いまはウィーンにある。
パレルモの王宮の中のパラティーナ礼拝堂は、王国の姿を一つの建物に映している。壁と丸天井にはビザンツの職人による金のモザイク、木の天井にはイスラームの職人による鍾乳石のような装飾と絵、床と柱の並びはラテンの教会の形である。ゲオルギオスが建てた教会(マルトラーナ)には、ルッジェーロがキリストの手から直接冠を受けるモザイクが残る。ビザンツの皇帝の姿を借りて描かれた王の肖像である。
王は学問を好んだ。北アフリカ出身の地理学者アル=イドリースィーを宮廷に招き、各地から旅人や商人を集めて話を聞き、15年ほどかけて世界の地理書と地図を作らせた。1154年に完成した書は『ルッジェーロの書』と呼ばれ(『ロジェールの書』と世界地図)、アラビア語の題は、遠くの国々を巡りたいと願う者の楽しみ、といった意味である。銀の円盤に刻んだ大きな世界図も作られたというが、失われた。完成から間もない1154年2月26日、ルッジェーロ2世はパレルモで死んだ。58歳だった。遺体は斑岩の棺に納められ、いまもパレルモの大聖堂に眠っている。

王国はその後、息子のグリエルモ1世(悪王)、孫のグリエルモ2世(善王)に受け継がれた。やがてルッジェーロの娘コスタンツァが神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に嫁ぎ、その子フリードリヒ2世がシチリアと帝国の両方を継いだ。三つの言葉と三つの宗教が共存した王国は、中世でもっとも寛容な国と呼ばれることがある。だが実際には、支配の中心はラテン人のキリスト教徒で、島のイスラーム教徒は少しずつ追い詰められた。1220年代、フリードリヒ2世は反乱したイスラーム教徒を本土のルチェーラに移した。シュタウフェン家を倒して南イタリアの王となったアンジュー家は、1282年のシチリアの晩祷で島を失ったが、本土に残したルチェーラのイスラーム教徒の町を、1300年に滅ぼした。パレルモの王宮は、いまシチリア州議会の議場として使われている。