できごと

イスラムの大征服

Early Muslim conquests
634年 – 750年
期間を持つできごと重要度 5
イスラムの大征服に関わる図版:Map of expansion of Caliphate
Map of expansion of Caliphate Wikimedia Commons DieBuche · Public domain

概要

一世紀のうちにイベリアからインダスまで広がった。ササン朝は消え、ビザンツは半分を失う。

本文

632年、預言者ムハンマドがメディナで死んだとき、イスラームの共同体はアラビア半島の中にとどまっていた。それから約100年のちには、ムスリムの支配は西はイベリア半島から東はインダス川と中央アジアまで広がっていた。古代以来の大帝国だったササン朝ペルシアは消え、東ローマ(ビザンツ)帝国は領土の半分以上を失った。人類の歴史でも指折りの速さの拡大である。それはなぜ可能だったのか。そして、なぜ一過性の征服に終わらず、千年以上続く文明の土台になったのか。

ムハンマドの死の直後、アラビアの諸部族の多くは共同体から離れようとした。初代のカリフ(預言者の後継者)アブー・バクルは、これを武力で押さえ込み、半島を再びまとめた。その勢いのまま、アラブの軍勢は634年頃から北の豊かな土地、ビザンツ領のシリアと、ササン朝領のイラクへ向かった。

敗走するビザンツ軍を追うアラブ騎兵
敗走するビザンツ軍を追うアラブ騎兵Wikimedia Commons Unknown, 13th-century author · Public domain

相手の二つの帝国は、直前まで疲れ切っていた。602年から628年まで、ビザンツとササン朝は26年にわたって大戦争を続けていた。ササン朝の軍は一時エジプトやエルサレムまで奪い、ビザンツ皇帝ヘラクレイオスは反撃してペルシアの本土深くまで攻め込んだ。戦争はビザンツの勝ちで終わったが、両国とも国庫は尽き、兵は減り、国境の町々は荒れていた。ササン朝では敗戦のあと、数年のうちに王が次々と入れ替わる混乱が続いた。6世紀から繰り返し襲った疫病も、両帝国の人口を削っていた。

アラブの軍は数こそ多くなかったが、砂漠を自在に動けた。ラクダで兵と物資を運び、敵の手の届かない砂漠に退き、思わぬところから現れた。636年、シリアのヤルムーク川のほとりで、アラブ軍はビザンツの大軍を破った(ヤルムークの戦い)。ヘラクレイオスはシリアを去るとき「さらば、シリアよ」と言ったと伝えられる。同じころ、イラクのカーディシーヤでササン朝の軍も破られ(カーディシーヤの戦い)、都クテシフォンが落ちた。エルサレムは630年代の後半に降伏し、第2代カリフのウマルが自ら町に入ったとされる。642年、イラン高原のニハーヴァンドでササン朝の最後の大軍が敗れ、王ヤズデギルド3世は東へ逃れて、651年に殺された。ササン朝は400年あまりの歴史を閉じた。

ヤルムークの戦いに関わる図版:Hayton BNF886 9v
ヤルムークの戦いWikimedia Commons anonymous Catalonian illustrator · Public domain

エジプトも、639年から642年にかけて征服された。ナイルの穀倉と、地中海最大の港の一つアレクサンドリアを失ったことは、ビザンツにとって大きな痛手だった。このとき、アレクサンドリアの大図書館の本がカリフの命で焼かれたという話がよく語られるが、それは数百年後に作られた話とされている。

征服が長続きしたのは、統治のやり方による。ムスリムの支配者は、征服した土地の人々に改宗を強いなかった。ユダヤ教徒やキリスト教徒、のちにはゾロアスター教徒も、「啓典の民」として扱われ、人頭税(ジズヤ)を払えば信仰と財産を保つことができた。もちろん、ムスリムより下の立場に置かれ、さまざまな制約があった。それでも、税はそれまでのビザンツやササン朝の取り立てより軽いことが多かった。ビザンツの正統な教会と教義をめぐって対立していたシリアやエジプトのキリスト教徒の中には、新しい支配者を前の支配者よりましと見た者もいたとされる。

ギリシアの火を使う様子を描いたビザンツ写本の挿絵
ギリシアの火を使う様子を描いたビザンツ写本の挿絵Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

アラブの兵士たちは、征服した土地の町に住み着くのではなく、新しく作った軍営の都市に集められた。イラクのバスラやクーファ、エジプトのフスタート(のちのカイロのもと)である。彼らはそこで俸給を受け取り、地元の社会とは離れて暮らした。地元の農民の暮らしや村の仕組みには、あまり手をつけなかった。役人もそのまま使った。シリアではしばらくギリシア語で、イランではペルシア語で役所の仕事が続けられ、貨幣もビザンツやササン朝の図柄をまねたものが使われていた。

第3代カリフのウスマーンが殺され、第4代のアリーの時代に共同体は内乱に陥った。勝ち残ったシリア総督ムアーウィヤが661年にウマイヤ朝を開き(ウマイヤ朝の成立)、都をダマスクスに置いた。カリフの位は、ここから世襲されるようになる。この内乱の中で生まれた対立が、のちのスンナ派とシーア派の分かれ目の始まりになった。

ヒシャームの宮殿。エリコ近郊のウマイヤ朝離宮のモザイク(724〜743年頃)
ヒシャームの宮殿。エリコ近郊のウマイヤ朝離宮のモザイク(724〜743年頃)Wikimedia Commons Arabischer Mosaizist um 735 · Public domain

ウマイヤ朝のもとで、征服は再び勢いを取り戻した。北アフリカでは先住のベルベル人の激しい抵抗にあいながらも、7世紀の終わりまでに大西洋岸に達した。711年、ベルベル人の将軍ターリクの率いる軍がジブラルタル海峡を渡った。ジブラルタルという地名は「ターリクの山」というアラビア語に由来する。軍は西ゴート王国を破り、数年のうちにイベリア半島のほぼ全体を手に入れた。同じ711年頃、東ではインダス川の下流のシンド地方が征服され、中央アジアのブハラやサマルカンドも8世紀の初めに支配下に入った。

拡大はそこで限界に達した。717年から翌年にかけてのコンスタンティノープル包囲は、ギリシア火と呼ばれる兵器と堅固な城壁、厳しい冬に阻まれて失敗した(コンスタンティノープル包囲とギリシア火)。732年には、フランク王国に攻め込んだ軍が、トゥールとポワティエのあいだでカール・マルテルに敗れた(トゥール・ポワティエ間の戦い)。この戦いはキリスト教世界を救った戦いとして後のヨーロッパで大きく語られたが、実際には、遠征の規模や意味について、もっと小さく見る研究者も多い。

コンスタンティノープル包囲とギリシア火に関わる図版:47-cropped-manasses-chronicle
コンスタンティノープル包囲とギリシア火Wikimedia Commons 47-manasses-chronicle.jpg : Original: Constantine Manasses derivative work: Stegop · Public domain

7世紀の末、カリフのアブドゥルマリクは、エルサレムに岩のドームを建て、役所の言葉をアラビア語に統一し、アラビア文字だけを刻んだ独自の貨幣を作らせた。征服の時代から、イスラーム国家としての形を整える時代に移ったのである。アラビア語はやがて、行政と学問と信仰の共通の言葉として、イベリアからイランまでを結んでいく。

住民の改宗は、ゆっくり進んだ。エジプトやシリア、イランで、ムスリムが人口の多数を占めるようになったのは、征服から数世代、地域によっては数百年あとのことだとされる。正確な速さについては、研究者の推計に幅がある。支配者の側にも改宗を急がせない事情があった。改宗者が増えれば、人頭税の収入が減るからである。実際、改宗しても税を軽くしてもらえない、アラブ人と同じに扱われないという不満は、非アラブのムスリムのあいだに積もっていった。

643年の年紀を持つギリシア語・アラビア語二言語の税収証書(エジプトのパピルス)
643年の年紀を持つギリシア語・アラビア語二言語の税収証書(エジプトのパピルス)Wikimedia Commons Ancient receipt (Life time: c. 643) · Public domain

その不満が、750年のアッバース革命の大きな力になった(アッバース革命)。ウマイヤ朝は倒れ、新しいアッバース朝は、アラブ人の支配ではなく、ムスリムの平等を掲げて、都をイラクのバグダードに移した。征服の一世紀はここで終わり、その上に、ペルシアやギリシアの学問を取り込んだイスラーム文明の黄金時代が花開く。征服そのものは軍事の出来事だったが、それが根づいたのは、支配の仕組みの設計によるところが大きかった。

出典(3)

タバリー 『諸使徒と諸王の歴史』カリフ時代の巻
エドワード・ギボン 『ローマ帝国衰亡史』第51章
ウィリアム・H・マクニール(増田義郎、佐々木昭夫 訳) 『世界史』第II部 諸文明間の平衡状態(BC500〜AD1500年)

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