クレタの奪回

概要
アラブの海賊の島を、ニケフォロス・フォカスが8か月囲んで取り戻した。135年ぶり。エーゲ海がビザンツの海に戻った。ニケフォロスは2年後に皇帝になり、キリキアとアンティオキアも取り、寝室で妻の愛人に殺された。
場所
35.34°N 25.13°E · ギリシア・クレタ
関わった人(1)
ニケフォロス2世フォカスAD912年–AD969年12月11日 · 取り戻した本文
エーゲ海の南の入口をふさぐように横たわるクレタ島は、9世紀の前半まで東ローマ帝国の領土だった。それを奪ったのは、はるか西のイベリア半島から来たアラブの人々である。818年、後ウマイヤ朝の都コルドバの郊外で住民が反乱を起こして敗れ、追放された数千の人々が海を渡ってエジプトのアレクサンドリアにたどり着いた。そこでもしばらく町を握ったのち追い出され、820年代、アブー・ハフスに率いられてクレタ島に上陸し、島を奪った。
彼らは島の北岸に、堀をめぐらせた町を築いた。アラビア語で堀を意味するハンダクと呼ばれ、ギリシア語ではカンダクス、のちのイタリア語のカンディア、いまのイラクリオンである。クレタの首長国は、エジプトやシリアのイスラームの勢力と結びながら、130年あまりの間、エーゲ海の島々や沿岸を襲う海賊の根城になった。島や沿岸の町は略奪され、住民は奴隷として売られた。904年には、シリアから来た艦隊が帝国第二の都市テッサロニキを襲い、数万の住民を連れ去っている。この艦隊もクレタを足場の一つにしていた。

ビザンツ帝国は、島を取り戻そうと何度も遠征軍を送った。奪われた直後の遠征に続いて、843年、911年、949年にも大きな艦隊を出したが、いずれも失敗に終わった。949年の遠征では、上陸した軍が不意を突かれて壊滅している。
960年、若い皇帝ロマノス2世は、東方の国境でアラブの軍と戦って名を上げた将軍ニケフォロス2世フォカスに、クレタの遠征を任せた。伝えられる船の数は数千隻、兵は数万とされるが、誇張を含むとみられる。それでも帝国の総力を傾けた遠征だったことは確かである。ニケフォロスは、船から直接、馬に乗った兵を浜に下ろせるように工夫した船で上陸し、迎え撃ってきた島の軍を破って、ハンダクスの町を陸と海から囲んだ。

町の城壁は厚く、包囲は冬を越して長引いた。囲む側も食糧が尽きかけ、兵の士気は落ちた。ビザンツの歴史家レオン・ディアコノスによれば、ニケフォロスは町の外で討ち取った敵の兵の首を投石機で城壁の中へ投げ込ませ、守る側の心を挫こうとした。961年3月、ついに城壁が破られ、町は落ちた。激しい略奪と殺戮が行われ、多くの住民が奴隷にされた。首長のアブドゥルアズィーズとその息子は捕らえられ、コンスタンティノープルに連れて行かれた。135年ぶりに、クレタは帝国に戻った。
ニケフォロスはコンスタンティノープルで凱旋の行進を許され、島から運ばれた財宝と捕虜が市民の前を引き回された。クレタには帝国の行政の区画が置かれ、修道士ニコンが島を巡って「悔い改めよ」と説き、イスラームの時代を経た島をキリスト教に戻していったと伝えられる。アラブの支配の時代のものは、いくらかの硬貨などを除いて、島にはほとんど残っていない。

クレタの奪回は、帝国が守りから攻めに転じた時代の幕開けだった。ニケフォロスはその翌年、シリアのアレッポを攻め落とし、963年、ロマノス2世が若くして死ぬと、軍に推されて皇帝の位につき、ロマノスの未亡人テオファノと結婚した。965年にはキプロスと小アジア南東のキリキアを取り戻し、969年にはシリアの大都市アンティオキアを330年ぶりに帝国に取り返した。エーゲ海と東地中海は、再びビザンツの海になった。だが禁欲的で重税を課す皇帝は都で嫌われ、969年12月、テオファノの手引きで寝室に入り込んだ甥の将軍ヨハネス・ツィミスケスらに殺された。帝国の拡大は、ツィミスケスと、その後のバシレイオス2世に引き継がれていく。
クレタはその後、240年あまり帝国の島であり続けた。1204年、第4回十字軍が帝都を奪う(第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪)と、島はヴェネツィア共和国の手に渡り、カンディアと呼ばれて東地中海の交易の拠点となった。いまのイラクリオンの町を囲む堅固な城壁は、ヴェネツィアの時代に築かれたものである。1669年、21年に及ぶ包囲の末に、カンディアはオスマン帝国に落ちた。島がギリシアの一部となったのは、1913年のことである。