人物

ハサン・サッバーフ

Hassan-i Sabbah
AD1050年頃 – AD1124年(享年74・推定)
ニザール派重要度 5

概要

ラッイの十二イマーム派の家。17歳でイスマーイール派に。カイロへ。1090年、アラムートを金で買って、35年出なかった。「家の外に二度出た。屋根に上るために」。息子二人を処刑した。ワインを飲んだ罪と、殺人の罪で。「ダアワ・ジャディーダ」。フィダーイー。オマル・ハイヤームとニザームルムルクの同級生という話は作り話。

関わったできごと(1)

アラムートのニザール派AD1090年 · 城を取った

本文

1050年頃、イランの町クムに生まれ、テヘランの南にあった古い都市ラッイで育った。正確な生年は分からない。家はシーア派の中で最も多数を占める十二イマーム派に属していた。この人物について私たちが知っていることの多くは、のちに彼の城の書庫で見つかった自伝の断片を、13世紀のペルシアの歴史家たちが書き写したものによる。

ハサン・サッバーフが本拠としたアラムート城
ハサン・サッバーフが本拠としたアラムート城Wikimedia Commons Basawan · Public domain

イスラームのシーア派は、預言者ムハンマドの娘婿アリーとその子孫を、信徒を導く正しい指導者(イマーム)と仰ぐ。そのうち、イマームの系譜をめぐって十二イマーム派と分かれたのがイスマーイール派で、10世紀にはエジプトにファーティマ朝を建てていた(ファーティマ朝の成立)。ファーティマ朝のカリフは、自らをイマームと称し、各地に宣教師(ダーイー)を送って信者を増やしていた。

自伝によれば、少年時代のハサンは父と同じ十二イマーム派の信仰を持ち、イスマーイール派の教えを異端だと思っていた。だが、ラッイで出会ったイスマーイール派の宣教師たちとの議論で、次第に考えを揺さぶられた。17歳のころ重い病にかかり、死を目の前にして、正しい信仰を知らずに死ぬことを恐れた。病が癒えると、イスマーイール派に改宗し、ファーティマ朝のイマームに忠誠を誓った。

信徒たちとともに描かれたハサン・サッバーフ(右)。『マルコ・ポーロ旅行記』初版の挿絵、1310年頃
信徒たちとともに描かれたハサン・サッバーフ(右)。『マルコ・ポーロ旅行記』初版の挿絵、1310年頃Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1070年代の初め、ハサンはイスファハーンでペルシアのイスマーイール派の指導者に見いだされ、エジプトへ行くよう勧められた。1078年にカイロに着き、3年ほどを過ごした。ところが、当時ファーティマ朝の実権を握っていた宰相の一派と対立し、国外へ追放されたと伝えられる。北アフリカ行きの船が難破し、シリアを経てペルシアに戻ったという。1081年にイスファハーンへ帰ると、それから9年近く、ペルシア各地を歩いて布教した。

当時のペルシアは、トルコ系のスンナ派の王朝セルジューク朝の支配下にあった。セルジューク朝は、スンナ派のアッバース朝カリフを守る立場をとり、イスマーイール派を厳しく取り締まっていた。ハサンは、平地の町で正面から戦うのではなく、山岳地帯の城を拠点にすることを考えた。目をつけたのが、カスピ海の南、エルブルズ山脈の奥深くの険しい岩山の上に建つアラムート城だった。

1090年、ハサンはアラムート城を手に入れた(アラムートのニザール派)。まず城の守備兵や周りの住民を少しずつ信者にし、自らも身を隠して城に入り込んだ。城主が気づいたときには、城はすでにハサンの側の人間で固められていた。ハサンは城主を追い出したが、その際に3000ディナールの手形を渡したという。城主は半信半疑で手形を持って行き、本当に金が受け取れて驚いた、と伝えられている。

それからの35年、ハサンはアラムートの城から一歩も出なかった。歴史家によれば、自分の住まいから外に出たのも生涯で2度だけで、それも屋根に上っただけだった。日々を祈りと読書と著述に費やし、各地の信者に指示を送り続けた。生活は極端に禁欲的で、城の中では音楽も酒も許されなかった。自分の二人の息子さえ処刑したと伝えられる。一人は酒を飲んだ罪で、もう一人は宣教師の殺害に関わったと疑われたためだった。妻と娘たちは別の城に移し、糸を紡いで生活の足しにさせたという。

1094年、ファーティマ朝のカリフが死に、跡継ぎをめぐって争いが起きた。本来の跡継ぎとされていた長男のニザールは、宰相が擁立した弟に敗れ、獄中で殺された。ハサンはカイロの新しいカリフを認めず、ニザールの系統こそが正しいイマームだと主張して、ファーティマ朝と縁を切った。ここから、ハサンのもとに集まった人々はニザール派と呼ばれるようになる(ファーティマ朝)。

ハサンは、イマームの教えの重要性を強調する教義を説いた。人間の理性だけでは、神とその真理を知ることはできない。真理を知るには、神に選ばれた権威ある教師、すなわちイマームの教えに従わなければならない。この考えは同時代のスンナ派の学者たちに危険視され、名高い神学者のガザーリーは、アッバース朝のカリフの求めに応じて、この教えを論駁する書物を書いている。

兵力で大きく劣るニザール派は、戦い方を工夫した。山岳地帯の城を次々に手に入れて互いに結び、攻められても守り抜ける拠点の網を作った。そして、敵の要人を狙い撃ちにして命を奪う手段を用いた。命を捧げて任務を果たす信徒たちは「フィダーイー(身を捧げる者)」と呼ばれた。彼らは標的の身辺に何年もかけて入り込み、多くの場合は人前で短剣を振るい、自らも逃げずに死んだ。

最初の、そして最も名高い犠牲者が、セルジューク朝の宰相ニザームルムルクである。1092年、遠征の途中で、修行者の姿をした男に刺し殺された。ニザール派の仕業とされるが、権力争いの中で、同じ年に亡くなるスルタンのマリク・シャーやその周辺の関与を疑う見方もある。セルジューク朝は何度もアラムートに兵を送ったが、山の上の城を落とすことはできなかった。

1124年、ハサンはアラムートで病没した。後継ぎには、息子ではなく、腹心の部下を指名した。ニザール派の国家は、その後もペルシアとシリアの山城を拠点に130年あまり続いた。後継者たちの時代には、ファーティマ朝やアッバース朝のカリフ、シリアの十字軍の領主たちまでが暗殺されている。1256年、西へ進んできたモンゴル軍の前に、アラムートはついに降伏した(モンゴル帝国の拡大)。ペルシアの歴史家ジュヴァイニーは、城の書庫を調べてハサンの自伝を読み、異端の書物の多くを焼いたと書いている。

ニザール派は、敵だった人々の書いた記録の中で恐ろしい姿に描かれた。シリアで彼らと接した十字軍は、大麻(ハシーシュ)に由来するあだ名で彼らを呼び、それがヨーロッパの言葉で「暗殺者」を意味する語の語源になった。山の老人と呼ばれる指導者が、若者を薬で眠らせて楽園のような庭に運び、死を恐れない暗殺者に仕立てたという話は、マルコ・ポーロの旅行記などで広まったが、ニザール派が麻薬を使っていたことを示す確かな証拠はない。

ハサンと、セルジューク朝の宰相ニザームルムルク、詩人のオマル・ハイヤームの3人が若いころ同じ師のもとで学び、出世した者がほかの2人を助けると誓い合った、という有名な話もある。19世紀にイギリスで『ルバイヤート』の英訳とともに広く知られるようになったが、3人の年齢が大きく離れていて、後の作り話と考えられている。ニザール派そのものは滅びず、今もアーガー・ハーンを指導者として、世界各地に信徒を持つ。

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