ウスマン・ダン・フォディオ
概要
学者から指導者になり、ハウサ諸王国を倒して西アフリカ最大の国を作った。
関わったできごと(1)
ソコト帝国の成立AD1804年 · 当人本文
ウスマン・ダン・フォディオは1754年12月15日、いまのナイジェリア北西部、ハウサ人の王国ゴビルのマラタの村に生まれた。「ダン・フォディオ」はハウサ語で「フォディオの子」、父の呼び名「フォディオ」はフラニ語で学者を意味する。一族はフラニ人の中でも、代々イスラームの学問を受け継ぐトロッベと呼ばれる家系で、祖先は西のセネガル川流域から移ってきたと伝える。ウスマンは父や親族からクルアーンを学び、のちに厳格な改革を説く学者ジブリール・イブン・ウマルに師事して大きな影響を受けた。

当時、ハウサの地にはカノ、カツィナ、ゴビル、ザザウ(ザリア)などの王国が並んでいた(ハウサ諸都市とカノ)。サハラを越える交易で栄えた都市国家で、王たちはムスリムを名乗っていたが、古くからの神々の祭りも続けていた。王は家畜や市場に重い税をかけ、ムスリムを奴隷として売ることもあった。牧畜を営むフラニ人は、とりわけ税と徴発に苦しんでいた。
20歳ごろから、ウスマンは村々を巡って説教を始めた。イスラームの教えを正しく守ること、王の不正な税や裁き、土着の信仰との混じり合いを改めることを説いた。ハウサ語やフラニ語の詩で教えを語り、女性にも説教を聞かせた。学者たちの中には、自分の妻や娘を家に閉じ込め、教えを受けさせない者がいると厳しく批判している。その名声は広まり、多くの弟子と民が彼のもとに集まった。ウスマンは「シェフ」(長老、師)と呼ばれるようになる。
ゴビルの王バワは、この学者を宮廷に招いた。1789年ごろ、ウスマンは王から、自由に説教すること、男がターバンを、女がヴェールをつけることを妨げないこと、捕らわれた者を解き放つこと、民に重い税をかけないことの約束を取りつけたとされる。だが次の王たちは、膨れ上がるウスマンの共同体を危険視し、改宗や服装を禁じる命令を出した。王ユンファは、かつてウスマンが教えたこともある人物と伝えられるが、ついに彼の命を狙った。
1804年2月、ウスマンは預言者ムハンマドのメディナへの移住にならい、信者を率いてグドゥの地へ移った(ヒジュラ)。そこで信者たちは彼を「信徒の長」に選び、ウスマンはゴビルの王に対する聖戦を宣言した。戦いの指揮をとったのは、弟のアブドゥッラーヒと息子のムハンマド・ベッロだった。ウスマンは各地の指導者に旗を与えて送り出し、フラニ人やハウサ人の民が次々に立ち上がった。1808年、ゴビルの都アルカラワが落ち、ユンファは殺された。数年のうちに、ハウサの諸王国のほとんどが倒れた。
こうして生まれたのがソコト帝国である(ソコト帝国の成立)。1809年、ベッロが新しい都ソコトを築いた。各地の旗手は「エミール」として地方を治め、ソコトの信徒の長に従った。東の古い王国ボルヌ(カネム=ボルヌの隆盛)にも攻め込んだが、ボルヌの学者で軍人のアル=カーネミーはこれを退け、同じムスリムどうしの戦いに何の正しさがあるのかと、ベッロと書簡で論争した。
ウスマン自身は、国が形を整えると、政務を弟と息子に委ねた。1812年には、国の西半分をアブドゥッラーヒに、東半分をベッロに治めさせた。本人は著述と教育に戻った。アラビア語、フラニ語、ハウサ語で書いた著作は100を超えるとされ、正しい統治とは何か、王が守るべき法、税のあり方、女性の学ぶ権利などを論じている。1817年4月、ソコトで死んだ。62歳だった。
作った国では学問が重んじられた。本人も、弟も、息子も、そして娘も著作を残している。娘のナナ・アスマウは、アラビア語、フラニ語、ハウサ語、トゥアレグ語の四つの言葉を操る詩人で、父の教えを詩にした。家から出られない女性たちのために、「ジャジ」と呼ばれる女性教師を村々へ送り、学んだ女性がまた別の女性に教える仕組みを作った。この「ヤン・タル」の運動は、いまもナイジェリア北部で受け継がれ、その名は女性の教育の計画にも使われている。
ソコトの国は西アフリカで最大の国となり、およそ100年続いた。1903年、イギリスの軍がソコトを落とし、国は植民地に組み込まれた(アフリカ分割)。それでもソコトのスルタンの位は残り、いまもナイジェリアのムスリムの精神的な指導者として重んじられている。ウスマン・ダン・フォディオの改革は、この地にイスラームの学問と統治の伝統を根づかせた一方、聖戦の名で行われた戦いと奴隷狩りが多くの人を苦しめたことも、併せて語られている。