コルドバのカリフ宣言
概要
アブド・アッラフマーン3世が「信徒の長」を名乗った。バグダードとカイロと、三人のカリフが並ぶ。コルドバは人口数十万、図書館に40万巻、街灯があった。ヨーロッパで最大の都市だった。
場所
37.89°N -4.78°E · スペイン・アンダルシア州
関わった人(1)
アブド・アッラフマーン3世AD891年–AD961年 · カリフ本文
イベリア半島のムスリムの国、後ウマイヤ朝は、もとをたどれば、ダマスクスのウマイヤ朝の成立に行き着く。750年のアッバース革命で一族がほぼ殺されたとき、逃げ延びた王子アブド・アッラフマーン1世が756年にコルドバで自立した。ただし彼とその子孫は、カリフを名乗らなかった。名乗ったのはアミール(首長)である。ムスリムの共同体を率いるカリフはただ一人であるべきで、それはバグダードのアッバース朝が占めている、という建前を崩さなかったのである。
912年、アブド・アッラフマーン3世が21歳ほどで位を継いだとき、国は崩れかけていた。トレドやセビリャなどの有力者は半ば独立し、南の山地では、キリスト教に改宗したイブン・ハフスーンの反乱が30年近く続いていた。彼は一つずつ反乱を抑え、地方の有力者を屈服させていった。928年、イブン・ハフスーンの拠点ボバストロがついに落ちる。そのとき彼は、すでに死んでいたイブン・ハフスーンの墓を暴き、キリスト教のやり方で葬られていたことを示したうえで、遺体をコルドバの門にさらしたと伝えられる。

国の内側を固めた翌929年1月、アブド・アッラフマーン3世は、自分をカリフとし、「信徒の長」と呼ぶよう命じる布告を各地のモスクで読み上げさせた。添えた称号は「アン・ナースィル・リディーン・アッラー」(神の宗教のために勝利する者)である。北アフリカでは、909年にシーア派のファーティマ朝がカリフを名乗っていた(ファーティマ朝の成立)。その勢いは西地中海に及び、イベリアの対岸にまで迫っていた。一方のバグダードのアッバース朝は、軍人に実権を奪われて衰えていた。アブド・アッラフマーン3世の宣言は、ウマイヤ家こそ正統だという誇りの表明であると同時に、ファーティマ朝への対抗でもあった。こうしてバグダード、北アフリカ、コルドバに、三人のカリフが並び立つことになった。
カリフとなった彼は、936年ごろからコルドバの西の郊外に新しい宮殿都市を造り始めた(メディナ・アッザフラー)。外国の使節はここに迎えられ、その壮麗さに圧倒された。ビザンツ皇帝の使節は、ギリシア語の薬物誌の写本を贈り物として持ってきた。ドイツのオットー1世が送った修道士ゴルツェのヨハネスは、外交上の行き違いから、謁見を許されるまで3年近く待たされたという。宮廷では、ユダヤ人の医師ハスダイ・イブン・シャプルートが外交と学芸で重く用いられ、宗教の違う人々がそれぞれの役を担った。

軍事では、北のキリスト教国と戦いを続けた。939年、レオン王国を攻めたシマンカスの戦いでは大敗し、カリフ自身も危うく命を落としかけた。以後、彼は自ら遠征に出ることをやめ、北の諸国を外交と内紛への介入で操る方へ移った。北アフリカでは、ファーティマ朝と争って、海峡の向こうのセウタなどの港を押さえた。
コルドバは、この時代に西ヨーロッパで並ぶもののない都市になった。人口の推定は10万から50万まで大きく揺れているが、当時のキリスト教世界のどの町よりも大きかったことは確かである。コルドバの大モスクは息子のハカム2世の代にさらに広げられ、ハカム2世の図書館には40万巻の書があったと伝えられる(後世の記録で、誇張を含むとみる研究者も多い)。舗装された道や夜の明かり、数多くの浴場のことも語り継がれている。遠いザクセンの修道女ロスヴィータは、この町を「世界の飾り」と書いた。

アブド・アッラフマーン3世は961年に死んだ。70歳ほどで、半世紀近く国を治めたことになる。死後に見つかった書き付けに、思うままの富と栄誉を得た長い治世の中で、心から幸せだった日を数えると14日しかなかった、と書かれていたという話が伝わる。何百年も後の歴史家が記したもので、どこまで本当かは分からない。
カリフ国の繁栄は長くは続かなかった。10世紀の末には、宰相のマンスールが幼いカリフに代わって実権を握り、北へ激しい遠征を繰り返した。その息子たちの代に争いが起き、1009年からの内乱で、コルドバは軍人たちに奪い合われた。宮殿都市ザフラーも荒らされ、1031年、カリフの位は廃された。宣言から約100年である。その後のイベリアは小さな王国に分かれ、北のキリスト教国の圧力にさらされながら、レコンキスタの完了までの長い時代に入る。それでも、コルドバの学問の伝統は残り、12世紀にはイブン・ルシュドがこの町から出ている。