できごと

スエズ運河の開通

Suez Canal
AD1869年11月17日
重要度 5
ロシア帝国大英帝国清デンマークオスマン帝国Turanマラーター同盟ペルシアポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェー中央アジアの諸ハン国スペイン帝国イギリス東インド会社フラニ帝国(ソコト)オーストリア帝国エジプトスペインフランスアフガニスタンNejdモロッコエチオピア帝国AlgiersKaartaグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセンソマリアモシ諸王国アシャンティ王国両シチリア王国バイエルンカネム=ボルヌTunisアシャンティ王国サルデーニャ王国オマーンTripolitaniaイエメンハノーファーCyrenaicaAD1869年11月17日スエズ運河
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概要

ヨーロッパとアジアの距離が一気に縮まった。エジプトは建設の負債で英国の支配下に入る。

場所

スエズ運河
30.59°N 32.27°E · エジプト

本文

1869年11月17日、地中海側のポートサイドから、各国の王族や外交官を乗せた船の列が南へ向かった。先頭はフランス皇后ウジェニーの乗るヨットだった。エジプトの副王イスマーイールは、この日のために欧州の賓客を招き、カイロには新しい歌劇場まで建てていた。船団は2日ほどで紅海側のスエズに着いた。全長160キロあまりの水路が、地中海と紅海をつないだのである。

二つの海を結ぶ考えは古い。古代エジプトの王たちはナイル川と紅海を結ぶ運河を掘らせたとされ、18世紀末にはナポレオンのエジプト遠征に同行した技師たちが測量をした。彼らは紅海の水面が地中海より10メートル近く高いと誤って計算し、計画は遠のいた。実際には水位にほとんど差はない。

行き違いのためにバッラ・バイパスに停泊する船
行き違いのためにバッラ・バイパスに停泊する船Wikimedia Commons No machine-readable author provided. Clipper assumed (based on copyright claims). · CC BY 2.5

実現させたのは、フランスの元外交官フェルディナン・ド・レセップスである。若い頃にエジプトに勤め、副王家の子サイードと親しくなった。1854年、そのサイードが副王になると、レセップスは運河を掘る利権を得た。1858年に会社を作り、株を売り出した。フランスでは株がよく売れたが、イギリスでは買い手がつかず、売れ残りの多くをサイードが引き受けた。イギリス政府は、フランスの影響がインドへの道に及ぶことを恐れて、計画に反対していた。

1859年4月、工事が始まった。初めの数年、掘ったのはエジプトの農民だった。副王の政府は村々に人数を割り当てて、交代で人を送らせた。賃金と食事は出たが、強制の労働であることに変わりはない。砂漠で水も足りず、コレラなどの病も広がった。工事中の死者の数ははっきりせず、数千人とする推計から数万人とする説まで幅がある。1860年代半ばにこの強制労働が廃止されると、会社は蒸気で動く浚渫機などの機械に切り替え、工事は10年で終わった。

スエズ運河を航行するアメリカの原子力巡洋艦ベインブリッジ
スエズ運河を航行するアメリカの原子力巡洋艦ベインブリッジWikimedia Commons CWO2 A.A. Alleyne, U.S. Navy · Public domain

開通した運河は、世界の海の地図を描き変えた。ロンドンからインドのボンベイ(いまのムンバイ)へ向かう船は、アフリカ南端の喜望峰を回る必要がなくなり、航路はおよそ7000キロ縮んだ。帆船は風の弱い紅海を通りにくかったため、運河は蒸気船の時代を後押しした。ヨーロッパとアジアの貿易は速く、安くなり、アジアの植民地支配もそれだけ容易になった。

だがエジプトの財政は、運河とともに傾いていった。サイードの後を継いだイスマーイールは、運河だけでなく鉄道や灌漑、都市の整備に巨額の金をつぎ込み、その多くをヨーロッパの銀行からの高利の借金でまかなった。1875年、資金に窮したイスマーイールは、持っていた運河会社の株を売りに出した。イギリスの首相ディズレーリは議会の承認を待たず、銀行家ロスチャイルドから金を借りてそれを買い取った。運河に反対していたイギリスが、最大の株主になったのである。

翌1876年、エジプトは借金の返済を止めた。イギリスとフランスが財政の管理に乗り込み、1879年にはイスマーイールが退位に追い込まれた。外国の支配に反発した軍人ウラービーらが立ち上がると(ウラービー運動)、1882年、イギリス軍が上陸してこれを鎮め、エジプトを占領した。形の上ではオスマン帝国の一部のままだったが、実際にはイギリスが国を動かすようになった。インドへの道を守ることが、占領の大きな理由だった。

ウラービー運動に関わる図版:Anglo-egyptian war
ウラービー運動Wikimedia Commons The Illustrated London News · Public domain

自分の国を通る運河を掘ったことで、自分の国を失った。エジプトの側から見れば、そういう歴史である。

運河は、その後も帝国の生命線であり続けた。1888年の条約で、戦時も平時もすべての国の船が通れると定められたが、二つの世界大戦ではイギリスが運河を守る拠点にした。1952年の革命で王政が倒れると、新しい指導者ガマール・アブドゥル=ナセルはイギリス軍の撤退を実現した。

1956年7月、ナセルは運河会社の国有化を宣言した。アスワン・ハイ・ダムの建設資金をアメリカとイギリスが出さないと決めたことへの対抗で、運河の通航料をダムに充てるという。10月、イスラエルがシナイ半島に攻め込み、続いてイギリスとフランスが運河地帯に兵を送った(スエズ危機)。だがアメリカとソ連がそろって撤退を求め、英仏は兵を引いた。運河は名実ともにエジプトのものになった。開通から87年後のことである。

スエズ危機に関わる図版:Port Said from air
スエズ危機Wikimedia Commons Fleet Air Arm official photographer · Public domain

イギリスにとっては、自分の力だけで世界を動かせる時代が終わったことを示す出来事でもあった。運河はその後、1967年の第三次中東戦争から8年間閉ざされ、再開後は拡張を重ねて、いまも世界の海上貿易の1割ほどが通る水路になっている。

レセップスはその後、中米のパナマで同じことを試みた。だが山と熱帯の病に阻まれて工事は行き詰まり、1889年に会社は破綻した。資金集めの際の政界への贈賄が明るみに出て、大きな疑獄事件になり、レセップス自身も有罪の判決を受けている。砂漠の平らな地峡で成功したやり方は、山の多い地峡では通用しなかった。パナマ運河を完成させたのは、20世紀に入ってからのアメリカである。

動画(1)

レセップス(Historia Mundi の世界人物史)Historia Mundi ムンディ先生人物を一人ずつ語る「世界人物史」の回(レセップス)

出典(2)

エドワード・W・サイード(今沢紀子 訳) 『オリエンタリズム』第2章 オリエンタリズムの構成と再構成
ウィリアム・バーンスタイン(鬼澤忍 訳) 『交易の世界史 シュメールから現代まで』第11章(蒸気と運河が距離を縮める)

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