イラク戦争
概要
大量破壊兵器を理由に、アメリカとイギリスがイラクに侵攻した。三週間でバグダードが落ち、兵器は見つからなかった。フセインは穴の中で捕まり、絞首刑になった。そのあと8年の内戦で、10万人を超える市民が死んだ。
場所
33.32°N 44.37°E · イラク
本文
2003年3月20日の夜明け前、バグダードの空にミサイルの閃光が走った。アメリカとイギリスを中心とする軍が、イラクのサッダーム・フセイン政権を倒すために攻め込んだのである。理由として掲げられたのは、イラクが大量破壊兵器を隠し持っているということだった。政権は3週間で倒れたが、兵器は見つからず、その後の8年あまりで、イラクは内戦と宗派の殺し合いに沈んだ。
フセインとアメリカの対立は、1990年のクウェート侵攻にさかのぼる。翌年の湾岸戦争でイラク軍はクウェートから追い出されたが、フセインは権力に残った。国連は経済制裁を科し、化学兵器や生物兵器、核開発の計画を捨てさせるために査察団を送り込んだ。イラクは査察を妨げたり受け入れたりを繰り返し、1998年に査察団は引き揚げた。
転機は2001年の9・11同時多発テロだった。ブッシュ大統領(子)の政権は、テロ組織と「ならず者国家」と大量破壊兵器が結びつくことを最大の脅威とみなした。2002年1月の一般教書演説で、ブッシュはイラク、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」と呼んだ。アフガニスタンでの戦争(アフガニスタン戦争)が続くなか、政権の目はイラクへ向かった。

2002年11月、国連の安全保障理事会は全会一致で決議1441を採択し、イラクに査察の受け入れを迫った。ブリクスが率いる国連の査察団と、エルバラダイが率いる国際原子力機関の調査団が4年ぶりにイラクへ戻ったが、決定的な証拠は見つからなかった。2003年2月5日、アメリカのパウエル国務長官は安保理で演説し、炭疽菌に見立てた小さな瓶を掲げ、トラックに載せた移動式の生物兵器工場の図を示した。のちに、この情報の多くはたった一人の亡命者の怪しい証言など、裏付けの乏しいものだったことが分かる。イラクがアフリカからウランを買おうとしたとする文書も、偽造だったことが明らかになった。
戦争に反対する声は大きかった。2月15日には世界の数百の都市で反戦デモが行われ、ロンドンやローマでは、数え方によって数十万から百万を優に超える人が集まったと報じられた。安保理では、武力行使をはっきり認める新しい決議を求める動きに、フランス、ドイツ(当時は非常任理事国)、ロシア、中国が反対し、採決されないまま終わった。3月17日、ブッシュはフセインと息子たちに48時間以内に国外へ去るよう求め、期限が切れた直後に攻撃が始まった。

参戦したのはアメリカ、イギリス、オーストラリア、ポーランドなどで、アメリカはこれを「有志連合」と呼んだ。地上軍はクウェートから北へ進み、4月9日にバグダードに入った。中心部のフィルドス広場ではフセインの巨大な像が引き倒され、その映像は世界に流れた。ただし像に綱をかけて倒したのはアメリカ軍の車両で、広場に集まった人はそれほど多くなかった。5月1日、ブッシュは空母の甲板で主要な戦闘の終わりを宣言し、背後には「任務完了」の横断幕が掲げられていた。
本当の戦争はここから始まった。占領を担った連合国暫定当局のブレマー代表は、着任してまもなく、旧与党バアス党の党員を公職から追放する命令と、イラク軍を解散する命令を出した。数十万の兵士が、職を失い、武器を持ったまま街に放り出された。役所も学校も動かす人がいなくなり、治安は崩れ、略奪が広がった。国立博物館も略奪にあった。

武装勢力の攻撃が増えるなか、2003年12月13日、フセインは故郷ティクリートの近くの農家の地下の穴に隠れているところを捕えられた。2004年4月には、バグダード郊外のアブグレイブ刑務所でアメリカ兵がイラク人の収容者を虐待する写真が明るみに出て、占領の正当性は深く傷ついた。同じ年、西部のファルージャでは二度の大きな戦闘があった。
2006年2月、サーマッラーにあるシーア派の聖廟、アスカリー廟が爆破されると、スンナ派とシーア派の報復の殺し合いが一気に燃え広がった。バグダードの街は宗派ごとに分断され、毎朝、身元の分からない遺体が見つかるようになった。フセインは住民の虐殺の罪で死刑を言い渡され、2006年12月30日に絞首刑となった。処刑の場面は携帯電話でひそかに撮られ、執行人がシーア派の指導者の名を叫ぶ声とともにネットに流れた。

2007年、アメリカは兵を増やし、スンナ派の部族を味方につける策もあって、暴力はいったん下火になった。アメリカ軍は2011年12月に撤退を終えた。しかし宗派の溝は残り、その空白の中から過激派組織「イスラム国」が力を伸ばした。2014年、彼らは北部の大都市モスルを奪い、国土のおよそ3分の1を支配した。モスルの奪還は2017年までかかった。
戦争の前提だった大量破壊兵器は、結局見つからなかった。アメリカの調査団は2004年の最終報告で、イラクは1991年以後に兵器の備蓄を失っており、核開発の計画も止まっていたと結論した。イギリスでは2016年、7年をかけた独立調査委員会の報告書が公表され、平和的な手段を尽くす前に参戦を決めたこと、武力行使はその時点で最後の手段ではなかったこと、戦後の計画が不十分だったことを厳しく指摘した。

死者の数には大きな幅がある。報道などから一人ずつ数え上げる民間団体の集計では、2003年から2011年までに暴力で死んだ民間人は10万人を優に超え、その後の戦闘を含めれば20万人を超える。2006年に医学誌に載った調査は、そこまでの超過死亡を65万人と推計したが、その手法には異論もある。アメリカ兵の死者はおよそ4500人、イギリス兵は179人だった。
この戦争は、強国が不確かな情報にもとづいて先に攻めることの危うさを示した例として語られ続けている。中東では、その後の内戦や過激派の広がり、イランの影響力の拡大の出発点とみなされることが多い。湾岸戦争から続いたフセインとの対立は、彼の死で終わった。だがイラクの人びとにとっての戦争は、2019年に若者たちが「国を返せ」と叫んで街を埋めたように、形を変えて続いた。