ノルマンのパレルモ征服
概要
ノルマンディーの小貴族の息子たちが、南イタリアの傭兵から始めて、イスラームのシチリアを取った。ギスカールと弟ルッジェーロ。5か月の包囲。アラブ人、ギリシア人、ノルマン人が同じ街に住み、その孫がシチリア王になる。
場所
38.12°N 13.36°E · イタリア・シチリア州
関わった人(1)
ロベール・ギスカールAD1015年頃–AD1085年7月17日 · 兄本文
ノルマンディーの西の端、コタンタン半島にオートヴィルという村がある。11世紀の初め、そこにタンクレッドという小さな領主がいて、二人の妻との間に12人の息子をもうけたと伝えられる。継がせる土地は一人分しかない。残りの息子たちは、剣一本を頼りに外へ出ていくしかなかった。ノルマン人は、百年あまり前にこの地に住みついたヴァイキングの子孫である(ノルマンディー公国の成立)。祖先のロロの時代から、彼らは土地を求めて動く人々だった。
行き先は南イタリアだった。そこはビザンツ帝国の属州、ランゴバルド系の諸侯の国、そして教皇領が入り組み、シチリアからはイスラームの船が襲ってきた。争いの絶えない土地では、腕の立つ騎士は高く売れる。1030年代から、オートヴィル家の兄たちが傭兵として次々に渡り、雇い主を替えながら城と土地を手に入れていった。長兄ギヨームは「鉄腕」とあだ名され、ドロゴ、ウンフレッドと兄弟が続いてプーリアの指導者になった。
1047年ごろ、六番目の息子ロベールがやって来た。兄たちは彼を厚遇しなかったので、彼はカラブリアの山中で手勢を集め、略奪と城攻めで勢力を広げた。そのやり口から付いたあだ名が「ギスカール」、抜け目のない者という意味である(ロベール・ギスカール)。ビザンツの皇女アンナ・コムネナは、のちに彼を敵として恐れつつ、その体格と知略をくわしく書き残している。
ノルマン人の台頭を危ぶんだ教皇レオ9世は、1053年、自ら軍を率いて南へ下った。6月、チヴィタテでノルマン人の軍はこれを打ち破り、教皇を捕らえた。ところが彼らは教皇の前にひざまずき、臣下として扱ってほしいと願った。勝った者が負けた者に頭を下げる奇妙な場面だったが、これが後の取引につながる。1059年、教皇ニコラウス2世はメルフィでロベールをプーリアとカラブリアの公に任じ、さらに将来シチリアを取れば、その公でもあると認めた。まだ一歩も踏み入れていない島の支配権が、先に教会から与えられたのである。

シチリアは、9世紀にアグラブ朝が征服を始めてから、200年以上イスラームの支配下にあった。のちにファーティマ朝の宗主権の下でカルブ家の総督が治め、パレルモは地中海でも有数の大都市として栄えた。だが1040年代ごろからカルブ家の支配は崩れ、島は何人もの有力者が争う状態になっていた。そのうちの一人、イブン・アッ=スムナが、敵に対抗するためノルマン人に助けを求めた。
島の征服を担ったのは、オートヴィル家の末弟ルッジェーロである。1057年ごろイタリアに来た彼は、兄ロベールと組んで、1061年、夜陰に乗じて海峡を渡り、メッシーナを奪った。1063年には内陸のチェラミで、わずかな騎士で大軍を破ったと、ノルマン側の年代記作者マラテッラは書く。数字は誇張と見るのがふつうだが、ルッジェーロが少ない兵で粘り強く戦ったことは確かである。教皇アレクサンデル2世はこの戦いに聖ペテロの旗を送り、異教徒との戦いとして祝福した。
1071年は、地中海の勢力図が大きく動いた年だった。4月、ロベールは3年近く囲んでいた南イタリアのバーリを落とした。ビザンツがイタリアに持っていた最後の拠点である。そして8月、遠く東のアナトリアでは、ビザンツ皇帝の軍がセルジューク朝に大敗した(マンジケルトの戦い)。ビザンツは同じ年に、西でイタリアを、東でアナトリアの支配の土台を失いはじめた。

バーリを落とした兄弟は、その夏のうちにパレルモへ向かった。ルッジェーロが陸から、ロベールが艦隊で海から街を囲んだ。包囲はおよそ5か月に及び、街は飢えに苦しんだ。1072年1月、ノルマン人は外側の市街を破り、旧市街のアル=カスルに追い詰められた住民は降伏した。ロベールが入城したのは1月10日とされる。降伏の条件は寛大だった。住民はイスラームの信仰を続け、自分たちの法で暮らしてよい。大モスクは教会に改められたが、街から住民を追い出すことはしなかった。
ロベールは征服地の大半を弟に任せて本土へ戻った。シチリア伯となったルッジェーロは、その後も島の征服を続けたが、山がちの島を一つずつ落とすのに時間がかかり、最後の拠点ノートが降伏したのは1091年だった。上陸から30年である。ルッジェーロは、ムスリムの弓兵を自分の軍に雇い、アラブ人の役人を使って税を取った。島にはアラブ人、ギリシア人、ノルマン人、ランゴバルド人、ユダヤ人が住み、文書はラテン語、ギリシア語、アラビア語で書かれた。征服者の数が少なかったから、彼らは住民の仕組みを壊すより、使うことを選んだのである。
ルッジェーロの息子ルッジェーロ2世は、1130年のクリスマスにパレルモで王冠を受けた(ルッジェーロ2世のシチリア王国)。彼の宮廷の礼拝堂パラティーナには、ビザンツの職人の金のモザイクと、アラブの職人の木彫りの天井が並んでいる。王はアラブの地理学者アル=イドリースィーを招き、世界の地理を集めた書と銀の大地図を作らせた(『ロジェールの書』と世界地図)。ルッジェーロ2世の孫にあたる皇帝フリードリヒ2世は、この多言語の宮廷で育ち、同時代の人々から「世界の驚異」と呼ばれた。

同じ頃、ノルマンディー公ギヨームはイングランドを征服していた(ヘイスティングズの戦い)。1066年と1072年、ノルマン人はわずか6年のうちに、北の島と南の島の両方の主になった。ただし、ノルマンディー公家とオートヴィル家は別の家で、同じ土地から出た二つの流れである。北では征服者が上に立って言葉と制度を入れ替えたが、南では征服者が少数のまま、多様な住民の間で均衡を取った。
ロベール・ギスカールは、1085年、ビザンツ帝国そのものを攻めようとアドリア海を渡った遠征の途中、ケファロニア島で熱病にかかって死んだ。その息子ボエモンは父の野望を受け継ぎ、のちに第1回十字軍(十字軍の呼びかけ)に加わって、1098年にシリアのアンティオキアを手に入れた。土地を持たない次男三男が始めた冒険は、ついに地中海の東の端にまで届いたのである。