できごと

タージ・マハルの完成

Taj Mahal
AD1653年
重要度 3
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1653年の版図を描いています(38勢力)。

概要

皇帝が妃のために建てた墓廟。ムガルの富と、ペルシア・インドの様式の融合を示す。

場所

アーグラ
27.18°N 78.01°E · インド・ウッタルプラデーシュ州

関わった人(1)

ヌール・ジャハーンAD1577年5月31日–AD1645年12月17日 · その前の時代に宮廷を動かした

本文

ムガル帝国の5代皇帝シャー・ジャハーンは、アクバルの孫にあたる。父ジャハーンギールの時代、宮廷で大きな力をふるったのは皇后ヌール・ジャハーンと、その一族だった。シャー・ジャハーンが皇子のころに結婚したアルジュマンド・バーヌー・ベーグムは、ヌール・ジャハーンの姪で、のちにムムターズ・マハル(宮廷の選ばれし者)と呼ばれる。二人は19年連れ添い、ムムターズは14人の子を産んだ。皇帝の遠征にもつねに同行し、皇帝は国璽を彼女に預けたと伝えられる。

1631年、南インドのデカンへの遠征の途中、ブルハーンプルの陣営で、ムムターズは14人目の子を産んだあとに亡くなった。38歳ほどだった。皇帝は深く悲しみ、喪に服して白い衣をまとい、しばらく音楽を禁じたという。遺体はいったんブルハーンプルに葬られたあと、都のアーグラに運ばれた。そしてヤムナー川のほとりに、彼女のための墓廟が建てられることになった。

孔雀の玉座に座るシャー・ジャハーン
孔雀の玉座に座るシャー・ジャハーンWikimedia Commons Govardhan (painter) · Public domain

工事は1632年ごろに始まった。中心の墓廟がほぼ形になったのは1643年ごろで、周りの庭園、門、モスク、迎賓館、隊商宿などを含めた全体が完成したのは1653年ごろとされる。帝国の各地とペルシア、中央アジアから集められた石工、象嵌の職人、書家、庭師ら、2万人ほどが働いたと言われる。設計の中心にいたのは、ラーホール出身の建築家ウスタード・アフマド・ラーホーリーだったとする説が有力だが、確かな記録は乏しい。

白い大理石は、西へ400キロほど離れたラージャスターンのマクラーナから運ばれた。その白い面に、色とりどりの石を切りはめて花や蔓を描く象嵌が施されている。使われた石は、パンジャーブの碧玉、中国の翡翠と水晶、チベットのトルコ石、アフガニスタンのラピスラズリ、スリランカのサファイア、アラビアの紅玉髄など、20種を超えるとされる。帝国の富と交易の広がりが、そのまま壁に刻まれている。

ムムターズ・マハルの肖像
ムムターズ・マハルの肖像Wikimedia Commons Public domain

門と墓廟の壁には、コーランの章句が黒い大理石の文字で象嵌されている。書家アマーナト・ハーンが手がけたもので、上に行くほど文字が少しずつ大きく書かれ、下から見上げたときに同じ大きさに見えるよう工夫されている。中心の墓廟は高さ70メートル以上あり、四隅に立つ四本の尖塔は、わずかに外側へ傾けて建てられた。地震のときに倒れても、墓廟の側に倒れかからないようにという工夫と説明されることが多い。

建物と庭園は、ほぼ完全な左右対称になるよう設計されている。ペルシアの伝統の、水路で四つに区切られた楽園の庭の形をとりながら、墓廟は庭の中心ではなく、川を背にした奥の端に置かれた。庭から見上げると、墓廟は空と川を背景に浮かんで見える。ペルシアの建築の形、インドの石工の技、イスラームの聖典の言葉が、一つに溶け合っている。

敷地図(左が北)
敷地図(左が北)Wikimedia Commons Mcginnly · Public domain

その対称を崩すただ一つのものが、墓廟の中の二つの棺だ。地下の墓室と、その上の広間に、ムムターズの棺が中心に置かれ、その西にシャー・ジャハーンの棺が並ぶ。皇帝の棺は、後から置かれたものだった。

1657年、シャー・ジャハーンが病に倒れると、4人の皇子たちのあいだで帝位をめぐる争いが起きた。勝ったのは三男のアウラングゼーブで、彼は兄弟を倒し、父をアーグラ城に幽閉した(アウラングゼーブの治世)。シャー・ジャハーンは8年近くを城の中で過ごし、川向こうのタージ・マハルを望みながら、1666年に亡くなった。遺体は妻の隣に葬られた。

大楼門
大楼門Wikimedia Commons This image was produced by me, David Castor ( user:dcastor ). The pictures I submit to the Wikipedia Project are release · Public domain

タージ・マハルには、いくつもの言い伝えがまとわりついている。皇帝は同じものが二度と建てられないよう職人の手を切り落とさせた、という話には、何の根拠もない。川の対岸に黒い大理石で自分の墓廟を建て、白い廟と橋でつなぐ計画があった、という話は、17世紀のフランス人旅行家の記述から広まった。だが対岸の庭園跡を発掘した調査では、黒い廟の基礎は見つからず、白い廟を水面に映して眺めるための庭だったとみられている。

ムガル帝国が衰えたあと、廟の宝石の一部は剥ぎ取られ、庭は荒れた。20世紀の初め、イギリスのインド総督カーゾンのもとで大がかりな修復が行われている。1983年には世界遺産に登録された。いまは年に数百万人が訪れる一方、近くの工場や車の排気で大理石が黄ばみ、粘土を塗って汚れを吸い取る手入れが繰り返されている。一人の妃の死から生まれた建物は、ムガル帝国の成立の富と美意識が頂点に達した時代の記念碑として残った。

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