ウマイヤ朝の成立
概要
第四代カリフのアリーが暗殺され、シリア総督ムアーウィヤがダマスクスでカリフを名乗った。選ばれるカリフから、世襲のカリフへ。アリーの側はこれを認めず、シーア派になる。
場所
33.51°N 36.28°E · シリア
関わった人(2)
ムアーウィヤAD602年頃–AD680年 · 初代カリフアリーAD600年頃–AD661年 · 暗殺された本文
661年、シリアの総督ムアーウィヤは、イスラーム共同体のただ一人のカリフとして認められた。都はダマスクスに置かれた。預言者ムハンマドの死から30年足らずで、共同体の長は、仲間うちで選ばれる者から、一つの家が受け継ぐものへと変わり始めた。この王朝をウマイヤ朝と呼ぶ。そしてこのときに生まれた亀裂は、スンナ派とシーア派の分裂として、いまも続いている。
ムハンマドの死後、共同体は彼の最も古い仲間たちの中から、アブー・バクル、ウマル、ウスマーンを順にカリフ(後継者)に選んだ。この間にアラブの軍は、ヤルムークの戦いでローマ帝国からシリアを奪い、ペルシアのササン朝を倒して、広大な征服地を手にした。3代目のウスマーンは、メッカの名門ウマイヤ家の出身だった。ウマイヤ家は、かつてムハンマドに最後まで敵対したメッカの有力者たちの家である。ウスマーンは各地の総督に親族を次々に任じ、不満が高まった。656年、エジプトなどから来た反乱者たちが、メディナのウスマーンの家を囲み、彼を殺した。

4代目のカリフになったのは、アリーだった。ムハンマドの従弟で、娘ファーティマの夫であり、預言者の家に最も近い人物である。しかし、アリーは即位の始まりから正当性を問われた。ウスマーンを殺した者たちがアリーを担いでいたからである。ムハンマドの妻だったアーイシャや、古参の仲間のタルハとズバイルは、ウスマーンの仇を討てと兵を挙げ、656年、イラクのバスラの近くでアリーと戦って敗れた。アーイシャが駱駝の上から指揮したことから、ラクダの戦いと呼ばれる。
もう一人、アリーを認めなかったのがムアーウィヤだった。ムアーウィヤはウスマーンと同じウマイヤ家の一族で、2代カリフのウマルの時代からシリアの総督を務め、20年近くかけてこの地に固い地盤を築いていた。シリアのアラブ部族を味方につけ、旧ローマ帝国のキリスト教徒の役人をそのまま使い、海軍まで持っていた。ムアーウィヤは、ウスマーンの血のついた衣と、夫をかばって切り落とされたというウスマーンの妻の指を、ダマスクスのモスクに掲げて、人々に仇討ちを訴えたと伝えられる。アリーが下手人を罰しない限り、アリーには従わない。それがムアーウィヤの立場だった。
657年、ユーフラテス川の上流のスィッフィーンで、アリーの軍とムアーウィヤの軍がぶつかった(スィッフィーンの戦い)。戦いが数か月に及び、アリーの側が優勢になりかけたとき、ムアーウィヤの兵は槍の先にクルアーンの紙葉を結びつけて掲げた、と伝えられる。神の書に裁いてもらおう、という呼びかけである。アリーの軍の中には戦いをやめたがる者が多く、アリーは仲裁を受け入れた。双方から代表を出し、話し合いで決着をつけることになった。

この決定は、アリー自身の陣営を割った。神の裁きを人間の話し合いにゆだねることはできない、裁きは神にのみ属する、と考えた人々が、アリーのもとを去った。彼らはハワーリジュ派(出ていった者たち)と呼ばれる。アリーは658年、この人々をイラクのナフラワーンで討ったが、これがさらに恨みを残した。仲裁の話し合いは、アリーに有利な結論を出さず、事実上の物別れに終わった。ムアーウィヤはその間にエジプトを手に入れ、660年にはエルサレムでカリフとしての忠誠の誓いを受けた。
661年1月、アリーはイラクのクーファのモスクで、朝の礼拝に向かうところを、ハワーリジュ派の男に毒を塗った剣で斬られ、数日後に死んだ。アリーの長男ハサンが後を継ごうとしたが、ムアーウィヤと戦う力はなく、数か月のうちに取り決めを結んでカリフの位を譲り、メディナに退いた。共同体はふたたび一人のカリフのもとにまとまった。のちのスンナ派の伝承は、この年を「団結の年」と呼んでいる。

ムアーウィヤはダマスクスから20年近く帝国を治めた。彼は力ずくで抑えつけるよりも、部族の長たちを宥め、贈り物と駆け引きで従わせることにたけた政治家だったと伝えられる。北ではローマ帝国と戦い、コンスタンティノープルにも軍を送った。晩年、ムアーウィヤは息子のヤズィードを後継者に指名し、生前のうちに各地の有力者から忠誠の誓いを取らせた。カリフの位を、自分の子に譲ったのである。それまで、カリフが息子に位を継がせた例はなかった。
680年にムアーウィヤが死ぬと、アリーの次男フサインはヤズィードを認めず、クーファの支持者たちの招きに応じてイラクへ向かった。同じ年、フサインと一族はカルバラーでウマイヤ朝の軍に囲まれ、ほとんど皆殺しにされた(カルバラーの悲劇)。アリーとその子孫こそが共同体を導く正しい指導者(イマーム)だと考える人々、「アリーの党派」、すなわちシーア派は、この悲劇を信仰の核として受け継いでいく。

ウマイヤ朝は約90年続き、イスラームの国家の版図を最も大きく広げた。西は北アフリカを越えて711年にイベリア半島に入り、トゥール・ポワティエ間の戦いではフランク王国に退けられたが、東は中央アジアとインダス川の流域にまで達した。5代カリフのアブドゥルマリクはエルサレムに岩のドームを建て、役所の言葉をアラビア語に統一し、独自の金貨と銀貨を作らせた。帝国はアラブ人の王朝として形を整えていった。
しかし、アラブ人とそれ以外の改宗者の間の差別、アラブ部族どうしの対立、シーア派の反発が積み重なり、750年、ウマイヤ朝は東方のホラーサーンから起こったアッバース革命に倒された。一族は殺され、生き残った一人がスペインに逃れて、コルドバで後ウマイヤ朝を建てる。

ウマイヤ朝の評判は、後世あまり良くない。シーア派はこの王朝を、預言者の家から位を奪った簒奪者と見る。スンナ派の歴史書もまた、カリフを王に変えた王朝として冷淡に描くことが多い。その歴史書の多くは、ウマイヤ朝を倒したアッバース朝の時代に書かれたものであり、勝者の目で書かれていることも割り引いて読む必要がある。