ニハーヴァンドの戦い

概要
ザグロス山脈を越えたところで、ササン朝の最後の軍が破れた。アラブは「勝利の中の勝利」と呼んだ。王ヤズデギルド3世は東へ逃げ、9年後にメルヴの粉屋に殺される。ササン朝は終わった。
場所
34.19°N 48.38°E · イラン
本文
630年代、アラビア半島から出たイスラーム教徒の軍は、北へ向かって二つの帝国に同時に挑んでいた(イスラムの大征服)。西のビザンツ帝国とはシリアで戦い、東のササン朝ペルシアとはイラクで戦った。ササン朝は、600年代の初めにビザンツと四半世紀にわたる大戦争を戦ったばかりで、その後は王位をめぐる内紛が続き、4年ほどのあいだに10人近い王が入れ替わった。632年ごろ、まだ少年のヤズデギルド3世が即位して、ようやく王位が落ち着いたところだった。
636年ごろ、イラク南部のカーディシーヤの戦いでササン朝の大軍が敗れ、翌年には都クテシフォンが落ちた。ヤズデギルドは王宮の財宝を持ち出し、ザグロス山脈を越えてイラン高原へ退いた。カリフのウマルは当初、山脈を越えて深追いすることに慎重だったと伝えられる。しかしペルシア側が高原で再び大軍を集めていると知って、決戦を決めた。

ペルシアの軍はイラン高原の西部、ハマダーンの南のニハーヴァンドに集まった。数は10万とも15万とも伝えられるが、誇張を含むと考えられている。指揮をとったのはフィールーザーンという将軍とされる。アラブの軍はクーファとバスラなどから集められた3万ほどで、ヌウマーン・イブン・ムカッリンが率いた。年は642年とされることが多いが、641年とする説もある。
ペルシア軍は堅い陣地に籠り、周りに鉄菱をまいて、打って出てこなかった。睨み合いが続いたあと、アラブ側は退却を装い、カリフが死んだという噂を流したとも伝えられる。陣地を出て追ってきたペルシア軍を、アラブ軍は待ち構えた場所で反転して迎え撃った。戦いの初めにヌウマーンは倒れたが、兄弟が旗を受け取り、将の死を伏せたまま戦いを続けさせたという。指揮はフザイファ・イブン・アルヤマーンが引き継いだ。ペルシア軍は崩れ、逃げる途中の隘路で多くが討たれ、フィールーザーンも追いつかれて殺された。

アラブの側はこの勝利を「勝利の中の勝利」と呼んだ。ササン朝が国として軍を集め、正面から戦ったのは、これが最後になった。この後、ハマダーン、エスファハーン、レイ、ファールスの諸都市は、一つずつ攻められ、あるいは条件を結んで降った。抵抗はなお各地で続き、反乱も繰り返されたが、それは地方ごとの戦いだった。
ヤズデギルドは、ケルマーン、シースターン、ホラーサーンへと、東へ東へ逃れた。各地の総督や貴族は、すでに力を失った王を重荷と見るようになっていた。651年、ヤズデギルドはメルヴの近くで、総督に見捨てられ、一人で粉ひき小屋に身を隠したところを、その粉屋に殺されたと伝えられる。身につけていた衣服と宝石が目当てだったという。殺された経緯には別の伝えもあるが、いずれにせよ、ササン朝最後の王は戦場ではなく逃亡の途中で死んだ。紀元224年から400年余り続いたササン朝(ササン朝の成立)は、ここで終わった。
ヤズデギルドの息子ペーローズは、さらに東の唐を頼った。唐は661年ごろ、シースターンのあたりに「波斯都督府」を置いてペーローズをその長とし、ペルシア再興を名目のうえでは支えた。だが再興はならず、ペーローズは長安で没したとされる。長安にはゾロアスター教の祠も建てられていた。故国に残ったゾロアスター教徒の一部は、のちに海を渡ってインド西岸のグジャラートに移り住み、パールシーと呼ばれる共同体を作った。移住の年は8世紀から10世紀まで説が分かれる。
国が倒れても、人々の宗教はすぐには変わらなかった。イランの住民の多くがイスラーム教徒になったのは、征服から200年から300年かけてのことと考えられている。ペルシア語もアラビア語に置き換わることはなく、アラビア文字で書くペルシア語として生き残った。のちのイスラーム世界の宮廷文化や行政の多くは、ササン朝の遺産を受け継いで作られていく(物語「イスラム世界」)。