人物

マリク・シャー

Malik-Shah I
AD1055年 – AD1092年11月19日(享年37・推定)
セルジューク朝重要度 4

概要

アルプ・アルスラーンの子。18歳。ニザームルムルクが治め、彼は狩りをした。ニザーミーヤ、イクター、暦、天文台。最大の版図。「私の国は、中国から地中海まで」。1092年10月、ニザームルムルクがアサシンに刺され、11月、自分も熱で死んだ。37歳。帝国は割れた。

所属

セルジューク朝

関わったできごと(1)

ジャラーリー暦AD1079年 · 命じた

本文

1055年に生まれた。祖父の兄弟にあたるトゥグリル・ベグが、中央アジアから来たトルコ系の遊牧民を率いてイランを征し、アッバース朝のカリフのいるバグダードに入ったのが、まさにこの年である。セルジューク朝は、イスラーム世界の東半分を支配する新しい帝国として立ち上がったばかりだった。マリク・シャーの父は、その後を継いだアルプ・アルスラーンである。

1071年、父アルプ・アルスラーンはアナトリア東部のマンジケルトでビザンツ帝国の大軍を破り、皇帝を捕虜にした(マンジケルトの戦い)。この勝利で、小アジアの扉がトルコ系の人々に開かれた。翌1072年、父は中央アジアへの遠征中、引き出された捕虜の城主に刺されて亡くなった。マリク・シャーは17歳で後を継いだ。

マンジケルトの戦いに関わる図版:Battle of Manzikert (1071)
マンジケルトの戦いWikimedia Commons O.Mustafin · Public domain

若いスルタンの即位に、叔父のカーヴルトが異を唱えた。南イランのケルマーンを治めていたカーヴルトは兵を挙げたが、1073年に敗れて捕らえられ、殺された。この戦いを指揮し、即位を支えたのが、父の代から宰相を務めていたニザームルムルクだった。以後20年、帝国の政治の実際はこの老宰相の手にあった。マリク・シャーは宰相を「父」と呼んで敬ったと伝えられる。

ニザームルムルクはイラン人の官僚で、遊牧の軍事力に、ペルシアの伝統的な行政の仕組みをかぶせて帝国を動かした。軍人に土地からの徴税の権利を割り当て、その収入で兵を養わせるイクターの制度を広げた。バグダードをはじめ各地にニザーミーヤと呼ばれる学院を建て(ニザーミーヤ学院の創設)、スンナ派の法学を学んだ官僚と学者を育てた。若きガザーリーもバグダードのニザーミーヤで教えた一人である。宰相がスルタンのために、王の心得と政治の技術を説いた『統治の書』も残っている。

マリク・シャー没年(1092年)ころのセルジューク朝支配地域
マリク・シャー没年(1092年)ころのセルジューク朝支配地域Wikimedia Commons MapMaster 2008 first version, Nihil scimus 2025 update. · Public domain

マリク・シャー自身は狩りを好み、戦いと狩猟の日々を送った。それでも、この帝国の絶頂期を象徴する事業は彼の名で行われた。1079年、スルタンはイスファハーンに天文台を建てさせ、天文学者たちに暦を改めさせた。その中には、のちに四行詩集で知られるオマル・ハイヤームもいた。新しい暦はスルタンの称号から「ジャラーリー暦」と呼ばれ(ジャラーリー暦)、太陽の動きにきわめて正確に合わせたものだった。都のイスファハーンには壮麗な建物が建ち並んだ。金曜モスクの南のドームはニザームルムルクが、北のドームはその政敵が建てたもので、今も残っている。

版図はこの時代に最も広がった。東では1089年にサマルカンドを攻め、中央アジアのカラハン朝を従わせた。西では弟のトゥトゥシュがシリアのダマスクスを押さえ、アナトリアでは一族のスライマーンがビザンツ領に深く入り込み、のちのルーム・セルジューク朝の土台を築いた。マリク・シャーはシリアへ遠征したとき、地中海の岸に着いて海に馬を乗り入れ、神に感謝したという話が伝わる。帝国は中央アジアの草原から地中海まで、そしてアラビア半島の一部にまで及んだ。アッバース朝のカリフには娘を嫁がせ、宗教上の権威とも結びついた。

マリク・シャー1世の肖像
マリク・シャー1世の肖像Wikimedia Commons Rashid Al-Din · Public domain

だが晩年、スルタンと宰相の間には溝ができていた。ニザームルムルクは息子や一族を要職に就け、その力はスルタンをしのぐほどになった。マリク・シャーの妃テルケン・ハトゥンは、自分の幼い息子を後継ぎにしようとし、長男を推す宰相と対立した。スルタンの周りには、宰相を除こうとする者たちが集まった。

そのころ、帝国の内側に新しい敵が生まれていた。イスマーイール派の一派、ニザール派である。指導者のハサン・サッバーフは1090年、イラン北部の山中のアラムートの城を手に入れ、そこを拠点にした(アラムートのニザール派)。スンナ派の帝国に正面から戦いを挑む力は無かった彼らは、要人を狙う暗殺という手段をとった。1092年10月14日、遠征に同行していたニザームルムルクは、イラン西部のニハーヴァンドの近くで、訴えのある者を装って近づいた若者に刺されて亡くなった。ニザール派による暗殺として最も名高いものの一つである。スルタン自身が裏で糸を引いたのではないか、と疑う声も当時からあった。

マリク・シャー1世のディナール金貨
マリク・シャー1世のディナール金貨Wikimedia Commons CNG · Public domain

それからひと月あまり、1092年11月19日、マリク・シャーもバグダードで亡くなった。狩りのあとに熱を出して倒れたとされ、毒を盛られたのだという噂が流れた。満37歳だった。帝国を動かしてきた二人が、ほとんど同時にいなくなったのである。

その後は、息子たちと妃、将軍たちの間で後継ぎ争いが続いた。長男のバルキヤールクと、ほかの息子たちが争い、各地の一族や軍人は自立していった。シリアは小さな勢力に分かれ、互いに争うようになった。1096年、西ヨーロッパから第1回十字軍がやってきたとき、彼らが出会ったのは、まとまりを失ったセルジュークの諸勢力だった。十字軍は1098年にアンティオキアを落とし、1099年にエルサレムを取った(第1回十字軍のエルサレム占領)。マリク・シャーが生きて帝国がまとまっていれば、十字軍の行く手は違っていたかもしれない、と言われるのはそのためである。のちに息子のサンジャルが東方でしばらく帝国の栄光を取り戻すが、マリク・シャーの時代の広がりは二度と戻らなかった。

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