イラン核合意

概要
イランが濃縮を制限し、査察を受け入れ、制裁が解かれた。12年の交渉。三年後にアメリカが離脱し、イランは濃縮を再開した。2025年、英仏独が制裁を戻す手続きを取り、国連の制裁が復活した。
場所
48.21°N 16.37°E · オーストリア
本文
イランの核開発の始まりは、イラン革命より前、親米の王政の時代にさかのぼる。アメリカの協力で研究炉が作られ、イランは1970年に核拡散防止条約を批准して、核兵器を持たない代わりに平和利用の権利を認められた。革命後に計画はいったん止まったが、イラン・イラク戦争でイラクの化学兵器に苦しんだ経験もあり、1980年代の後半から密かに再開されたとされる。
2002年8月、イランの反体制派が、中部のナタンズに地下のウラン濃縮施設が、西部のアラークに重水の製造施設が造られていると暴露した。ウランを遠心分離機で濃縮すれば、原発の燃料にも、さらに濃くすれば核兵器の材料にもなる。国際原子力機関(IAEA)の査察が入り、2003年、イランはイギリス・フランス・ドイツとの交渉で濃縮をいったん止めた。しかし2005年に強硬派のアフマディネジャドが大統領になると濃縮を再開し、2006年から国連安全保障理事会が制裁を重ねた。2009年には、聖地コムの近くの山の中に、もう一つの濃縮施設フォルドウが造られていることが明らかになった。

交渉が行き詰まる間、水面下の攻撃が続いた。2010年頃、ナタンズの遠心分離機を狂わせるコンピューターウイルス「スタックスネット」が見つかった。アメリカとイスラエルが作ったと広く報じられ、1000台ほどの遠心分離機が壊れたと推定されている。2010年から2012年にかけて、イランの核科学者4人が、バイクの男に車へ磁石式の爆弾を貼りつけられるなどして殺された。2012年にはEUがイラン産石油の輸入を止め、通貨リアルの価値は暴落した。
転機は2013年である。制裁の解除を掲げた穏健派のロウハーニーが大統領に選ばれた。それまでにオマーンの仲介で、1979年以来国交の無いアメリカとイランの秘密の接触が始まっていた。9月、オバマ大統領とロウハーニー大統領が電話で話し、11月にジュネーヴで暫定合意が結ばれた。2015年4月のローザンヌでの枠組み合意を経て、7月14日、ウィーンのコーブルク宮殿で、イランと、安保理の常任理事国5か国にドイツを加えた6か国、そしてEUが、「包括的共同行動計画」に合意した。アメリカのケリー国務長官とイランのザリーフ外相が、何か月も向き合った末の合意だった。

合意の中身は細かく、本文と付属書を合わせると100ページを超える。イランは15年間、ウランの濃縮度を原発の燃料に使う3.67%までに抑え、約1万9000台あった遠心分離機をおよそ6000台に減らし、濃縮はナタンズだけで行う。フォルドウは研究施設に変え、10トン近くあった低濃縮ウランの備蓄を300キロまでに減らし、アラークの重水炉はプルトニウムが取り出しにくい形に造り替える。IAEAには厳しい査察を認める。これによって、イランが核兵器1発分の高濃縮ウランを作るのにかかる時間を、2〜3か月から1年以上に延ばす、と説明された。見返りに、核をめぐる国連・アメリカ・EUの制裁が解かれる。違反があれば、国連の制裁が自動的に元に戻る「スナップバック」の仕組みも入った。
反発もあった。イスラエルのネタニヤフ首相は歴史的な過ちだと非難し、サウジアラビアなど湾岸の国々も警戒した。アメリカ議会では共和党の多くが反対したが、合意を止めるには票が足りなかった。2016年1月、IAEAがイランの義務の履行を確認し、制裁が解かれた。

合意は長く続かなかった。2018年5月8日、トランプの当選で大統領になったトランプは、合意を史上最悪の取引だとして離脱を表明し、制裁を元に戻して「最大限の圧力」をかけた。イランの石油輸出は激減した。ヨーロッパの国々は合意を守ろうとしたが、アメリカの制裁を恐れる企業はイランから手を引いた。イランは2019年から段階的に合意の制限を破り始め、2020年1月、革命防衛隊の司令官ソレイマニがアメリカの無人機に殺されると、制限をほぼ無視するようになった。2021年には濃縮度60%に達し、2023年には兵器級に近い84%のウランの粒子が見つかった。
2025年6月、イスラエルがイランの核施設や軍の拠点を空爆し、続いてアメリカも、地中深くを破壊する爆弾でフォルドウ、ナタンズ、イスファハンを攻撃した。トランプは施設を「消滅させた」と述べたが、イランはIAEAの査察を拒むようになり、高濃縮ウランがどこにどれだけ残ったのかは確かめられていない。同じ年の9月、イギリス・フランス・ドイツがスナップバックを発動し、国連の制裁が復活した。10年をかけた外交の成果は、こうしてほとんど形を失った。