概要
ドンゴラの船大工の家。スーフィーの修行者。1881年、白ナイルのアバ島で「私はマフディーである」と宣言した。エジプトの徴税と奴隷交易の取り締まりへの不満、そしてスーフィーの終末待望。1883年、イギリス人ヒックス指揮の1万を全滅させた。1885年、ハルツーム。6か月後、チフスで死んだ。国家は13年続き、1898年、オムドゥルマンで終わった。彼の墓はキッチナーに壊された。
関わったできごと(1)
ハルツームの陥落AD1885年1月26日 · マフディー本文
1844年8月12日、ドンゴラ(ナイル上流のヌビア)。船大工の家。預言者の子孫(アシュラーフ)を称した。家族は木材を求めて南のカルタリ島へ移った。
若い頃から、コーランを学び、スーフィーの道に入った。サマーニーヤ教団。師のシャイフ・ムハンマド・シャリーフの下で、厳しい禁欲で知られた(穴を掘って首まで入り、太陽の下で経を唱えた、と伝える)。1870年代、師と対立した(師の息子の割礼の祝いに、音楽と踊りがあったことを非難した)。破門され、別の師の下へ移り、白ナイルのアバ島に庵を結んだ。
スーダンの状況。エジプト(オスマンの副王)の支配60年。「トルコ人(トゥルク)」と呼ばれた支配層。重い税(家畜、ナツメヤシ、水車、それぞれに課税)。徴税人の暴力。そして、ヨーロッパの圧力で始まった奴隷交易の取り締まりが、南部の奴隷商人(バッガーラ族など)の生業を奪っていた。ゴードンが総督(1877〜79年)として、それを厳しくやった。
イスラームの伝統に、「マフディー(導かれた者)」の観念がある。世の終わりに近く、正義を回復するために現れる。時期も人物も定まっていないが、危機のたびに、名乗る人が現れた。
1881年6月29日、アバ島。ムハンマド・アフマドは、集まった弟子たちに、自分がマフディーであると宣言した。「私は、預言者の命によって遣わされた」。
エジプト政府は、逮捕のために2個中隊を送った。マフディー派は棍棒と槍で夜襲して、撃退した。マフディーは支持者と共に、南西のコルドファンのヌバ山地へ「ヒジュラ(聖遷)」した(預言者のメディナ移住になぞらえた)。
支持は急速に広がった。信心深い者、税に苦しむ農民、取り締まりで職を失った奴隷商人、独立を求めるバッガーラの遊牧民。彼は、贅沢を禁じ、質素な継ぎのある衣(ジッバ)を着ることを命じ、それが軍装になった。
1883年1月、エル・オベイド(コルドファンの首都)を落とした。11月5日、シェイカーンの森。イギリス人ウィリアム・ヒックス指揮のエジプト軍1万を、3日間、水のない森の中で包囲して、全滅させた。生き残りは300人ほど。武器と大砲が手に入った。
1884年3月から、ハルツーム包囲。1885年1月26日、陥落。
彼はハルツームに入らなかった。対岸のオムドゥルマンに都を置いた。「トルコ人の都」を捨てた。
1885年6月22日、チフス(発疹チフス)で死んだ。40歳。ハルツーム陥落の5か月後。
後継者アブドゥッラーヒ・イブン・ムハンマド(ハリーファ、代理人)。13年、マフディー国家が続いた。エチオピアとエジプトと戦い、飢饉があり、内部で部族が争った。
1898年9月2日、オムドゥルマン。キッチナーの英エジプト軍2万5000(機関銃と砲と、砲艦)が、マフディー軍5万を迎え撃った。5時間。マフディー側の死者1万1000、負傷1万3000。英側の死者48。
キッチナーは、マフディーの墓(オムドゥルマンのドーム)を砲で壊し、遺骨をナイルに投げ捨てさせ、頭蓋骨を持ち帰ってインク壺か杯にする、と言った。ヴィクトリア女王とチャーチルを含む本国の非難で、頭蓋骨はワディ・ハルファに埋められた。
墓は1947年に再建された。スーダンの独立(1956年)の後、マフディーは国民的な英雄になった。彼の曾孫サーディク・アル・マフディーは、2度、スーダンの首相を務めた。