人物

ムハンマド・アフマド

Muhammad Ahmad
AD1844年8月12日 – AD1885年6月22日(享年40)
マフディー国家重要度 4

概要

ドンゴラの船大工の家。スーフィーの修行者。1881年、白ナイルのアバ島で「私はマフディーである」と宣言した。エジプトの徴税と奴隷交易の取り締まりへの不満、そしてスーフィーの終末待望。1883年、イギリス人ヒックス指揮の1万を全滅させた。1885年、ハルツーム。6か月後、チフスで死んだ。国家は13年続き、1898年、オムドゥルマンで終わった。彼の墓はキッチナーに壊された。

関わったできごと(1)

ハルツームの陥落AD1885年1月26日 · マフディー

本文

ムハンマド・アフマド・イブン・アブドゥッラーは1844年8月12日、ナイル川上流のヌビア地方、ドンゴラ付近で、船大工の家に生まれた。一家は預言者ムハンマドの子孫を称していた。幼いうちに一家は船材を求めてハルツームに近い地方へ移り住んだ。彼は早くからコーランを学び、暗記した。

ムハンマド・アフマド・アル=マフディー
ムハンマド・アフマド・アル=マフディーWikimedia Commons Not identified · Public domain

若くして、彼はスーフィー(イスラーム神秘主義)の道に入った。サンマーニーヤという教団の師ムハンマド・シャリーフのもとで修行し、断食と祈りに明け暮れる厳しい禁欲ぶりで知られるようになった。1870年代の終わり、彼は師と決裂した。師が息子の割礼の祝いで歌や踊りを許したことを、信仰にもとる振る舞いとして公然と非難したためと伝えられる。破門された彼は別の師のもとに移り、白ナイル川の中洲アバ島に庵を結んで、弟子を集めた。

当時のスーダンは、オスマン帝国の宗主権のもとで半ば独立していたエジプトに、60年ほど支配されていた。人々は支配者を「トルコ人」と呼んだ。家畜にも、ナツメヤシにも、灌漑の水車にも税がかけられ、取り立ては暴力を伴った。一方、ヨーロッパの圧力を受けたエジプト政府は奴隷交易を禁じ、英国人のチャールズ・ゴードンを総督に任じて厳しく取り締まらせた。奴隷の売買で暮らしを立てていた商人や、南部の遊牧の部族にとって、それは生業を奪われることだった。重い税への怒りと、古い暮らしを壊される不満が、国中に積もっていた。

緑でハッチングされた部分が1885年時点のマフディー反乱の範囲である。
緑でハッチングされた部分が1885年時点のマフディー反乱の範囲である。Wikimedia Commons Africa_1885.jpg : F.R.G.S. John Bartholomew (1831 – 1893) derivative work: Hans Erren ( talk ) · Public domain

イスラームには、世の終わりが近づくと、不正に満ちた世界に正義を取り戻すために、神に導かれた者「マフディー」が現れるという信仰がある。いつ、誰が現れるかは定まっておらず、危機の時代には各地でマフディーを名乗る者が出た。1881年6月、ムハンマド・アフマドは、自分こそがそのマフディーであると、弟子たちに、そしてスーダンの有力者たちに書簡で告げた。預言者から直接その使命を授かったと彼は語った。

エジプト政府は、彼を捕らえるために兵を送った。8月、アバ島に上陸した部隊を、マフディーの支持者たちは槍と棍棒だけで夜襲し、撃退した。マフディーは、預言者がメッカからメディナに移った故事(ヒジュラ(聖遷))になぞらえ、支持者を率いて南西のコルドファン地方のヌバ山地へ移った。政府が送った討伐隊は次々に敗れ、そのたびに彼の名声は高まった。

マフディー運動の参加者(アンサール)がよく着ていた服を身にまとったスーダンの男性。ウンム・ドゥルマーンで1936年に撮影された写真。
マフディー運動の参加者(アンサール)がよく着ていた服を身にまとったスーダンの男性。ウンム・ドゥルマーンで1936年に撮影された写真。Wikimedia Commons Matson Photo Service, photographer. (G. Eric and Edith Matson Photograph Collection) · Public domain

支持は急速に広がった。信仰に燃える者、税に苦しむ農民、取り締まりで職を失った奴隷商人、エジプトの支配を嫌う遊牧の部族。マフディーは信徒に贅沢を禁じ、継ぎを当てた質素な上衣(ジッバ)を着るよう命じた。それがそのまま兵の装いになった。1883年1月、コルドファンの中心都市エル・オベイドが、長い包囲の末に降った。

エジプト政府は、英国人の元軍人ウィリアム・ヒックスに約1万の軍を預け、討伐に向かわせた。1883年11月、マフディー軍はこの軍を水の乏しい森の中へ誘い込み、シェイカーンで包囲して全滅させた。生き延びた者はわずかだった。大量の銃と大砲がマフディーの手に入り、スーダン全土が彼になびいた。この敗北を受けて、すでにエジプトを占領していた英国(ウラービー運動)は、スーダンを放棄すると決めた。

ウラービー運動に関わる図版:Anglo-egyptian war
ウラービー運動Wikimedia Commons The Illustrated London News · Public domain

撤退の指揮のために送り込まれたのが、かつての総督ゴードンだった。しかしゴードンは撤退せずハルツームにとどまり、1884年3月からマフディー軍に包囲された。10か月の包囲の末、1885年1月26日、ハルツームは陥落し、ゴードンは殺された(ハルツームの陥落)。英国の救援部隊が着いたのは、その2日後だった。

マフディーは、エジプト支配の拠点だったハルツームを都とはせず、ナイルの対岸のオムドゥルマンに新しい都を築いた。しかし勝利からわずか5か月後の1885年6月22日、彼はオムドゥルマンで病に倒れて死んだ。チフスだったとされる。40歳だった。

後を継いだのは、側近のアブドゥッラーヒで、「後継者(ハリーファ)」と呼ばれた。マフディー国家はその後13年続き、エチオピアやエジプトと戦い、飢饉と内部の対立に苦しんだ。1898年9月2日、キッチナーが率いる英国とエジプトの軍がオムドゥルマンに迫った(オムドゥルマンの戦い)。機関銃と大砲の前に、突撃を繰り返したマフディー軍は1万人以上の死者を出して敗れた。英国側の死者は50人に満たなかった。この戦いには若い騎兵将校だったチャーチルも加わっていた。

オムドゥルマンの戦いに関わる図版:21lancers
オムドゥルマンの戦いWikimedia Commons Edward Matthew Hale (1852-1924). Original uploader was Raoulduke47 4 January 2007 (original upload date) at en.wikipedia · Public domain

勝ったキッチナーは、オムドゥルマンにあったマフディーの墓廟を砲撃で破壊させ、遺骨をナイル川に投げ捨てさせた。頭蓋骨を戦利品として持ち帰ろうとしたことは英国本国でも非難を浴び、頭蓋骨はのちにエジプトとの国境に近いワディ・ハルファに葬られた。

墓廟は1947年に再建された。スーダンが1956年に独立すると、マフディーは外国の支配に立ち向かった国民的な指導者として位置づけ直された。彼の子孫は今もスーダン政治の中で大きな存在で、曾孫のサーディク・アル・マフディーは2度、首相を務めている。

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