チャルディラーンの戦い
概要
オスマンの鉄砲と大砲が、サファヴィーの騎兵を破った。スンナ派とシーア派の境がこの線で固まる。
場所
39.07°N 44.38°E · イラン・西アーザルバーイジャーン州
関わった人(1)
セリム1世AD1470年10月10日–AD1520年9月22日 · 勝った本文
16世紀の初め、イランの北西部に新しい力が現れた。神秘主義の教団サファヴィー教団の若き長、イスマーイールである。1501年、まだ十代の彼は、教団に心酔するトルコ系の遊牧戦士たちを率いてタブリーズに入り、シャー(王)を名乗った。戦士たちは赤い心棒の立った独特の帽子をかぶったことから、キジルバシュ(赤い頭)と呼ばれた。彼らにとってイスマーイールは、ただの王ではなく、神の光を宿す聖なる指導者だった。イスマーイールはシーア派の十二イマーム派を国の宗教と定め、わずか十年ほどでイランの大半を手に入れた。
西隣のオスマン帝国にとって、これは国境の外の出来事では済まなかった。キジルバシュの多くはアナトリア(いまのトルコの東部や中部)の遊牧民の出身で、オスマンの領内にも、イスマーイールを慕う人々が大勢いたからだ。1511年には、アナトリアでキジルバシュに共鳴する大規模な反乱が起き、オスマン軍を破って大宰相を戦死させた。帝国の足元で、別の君主に忠誠を誓う人々が育っていた。

この危機を前に、オスマンの王子セリム1世は、父のバヤズィト2世を退位させて1512年に即位した。セリムはシーア派への信仰を異端とする法学者の意見をとりつけ、即位するとまずアナトリアのキジルバシュの支持者を厳しく取り締まった。このとき多くの人が殺されたと伝わるが、その数ははっきりしない。そして1514年の春、自ら大軍を率いて東へ向かった。
イスマーイールは、すぐには戦わなかった。オスマン軍を自国の奥へ引き込み、土地を焦土にして疲れさせる策をとったとされる。長い行軍に、イェニチェリ(スルタン直属の常備歩兵)からは不満の声が上がった。だが、セリムは引かなかった。8月23日、両軍はタブリーズの北西、チャルディラーンの平原で向かい合った。
兵の数は史料によってまちまちだが、オスマン軍のほうがかなり多かったとされる。それ以上に違ったのは武器だった。オスマン軍は大砲と火縄銃を備えたイェニチェリを持ち、前面に荷車を並べて鎖でつなぎ、その陰に銃兵と砲を据えた。ヨーロッパや中央アジアでも使われた、車を連ねた陣である。サファヴィー軍の主力はキジルバシュの騎兵で、火器はほとんど持っていなかった。イスマーイールが火器を武人にふさわしくない卑怯な武器と見なしていた、という話も伝わるが、確かな根拠があるわけではない。
キジルバシュの騎兵は勇敢に突撃し、オスマンの両翼の一方を崩しかけた。だが中央の車陣に近づくと、銃と大砲の射撃に撃ち倒された。戦いは一日で決した。イスマーイール自身も傷を負い、戦場から逃れた。妻の一人がオスマン側に捕らえられたとも伝えられる。

9月、セリムはサファヴィーの都タブリーズに入った。だが冬が近づき、遠征に倦んだイェニチェリが帰国を強く求めたため、セリムは長くとどまれずに引き上げた。サファヴィー朝は滅びなかった。それでも、東アナトリアの多くと、北イラクの一部はオスマンのものになり、国境は東へ押し戻された。
この敗北は、イスマーイールにとって戦場での負け以上の意味を持った。彼は無敵で、神に守られた存在だと信じられていた。その王が負けた。イスマーイールはこの後二度と自ら戦場に立たず、狩りと酒に日を送るようになったと伝えられ、1524年に30代の若さで死んだ。サファヴィー朝はその後、キジルバシュの騎兵だけに頼る軍を改め、火器を備えた歩兵や砲兵を育てていく。それが形になるのは、16世紀の末に即位したアッバース1世の時代である(サファヴィー朝のイスファハーン)。
東の脅威をひとまず退けたセリムは、矛先を南に転じた。サファヴィーと手を結ぶおそれのあったマムルーク朝を、1516年から翌年にかけて攻め滅ぼし、シリアとエジプト、そしてメッカとメディナの守護者の地位を手に入れた(セリム1世のエジプト征服)。チャルディラーンで試された火器の力は、ここでも騎兵を打ち破った。

オスマンとサファヴィーはその後も1世紀以上、イラクとアゼルバイジャンをめぐって戦い続けた。1639年に結ばれた和約で、ようやく両国の境が定まる。その線は、いまのトルコとイラン、イラクとイランの国境のもとになった。スンナ派を掲げる帝国とシーア派を掲げる帝国が向き合い、イランはシーア派の国として固まっていった。チャルディラーンは、その境目が初めてはっきり引かれた戦いだった。
イスマーイールは、ハターイーの筆名でトルコ語の詩を書いた詩人でもあった。その詩は、いまもアナトリアのアレヴィーと呼ばれる人々の間で歌い継がれている。国境の線は引かれたが、彼を慕った人々の信仰は、線の両側に残った。