モカとコーヒーの広がり
概要
エチオピア原産の実を、15世紀のイエメンのスーフィーが、夜の勤行で眠らないために煮て飲んだ。紅海の港モカが積出港になり、オスマンが独占した(種の持ち出しを、煮てから出すことで防いだ)。17世紀、オランダがバンテンとジャワへ、フランスがカリブへ苗を持ち出した。コーヒーハウスは、ロンドンでは新聞と保険(ロイズ)と株式取引を、パリでは革命の議論を生んだ。「1ペニー大学」。
場所
13.32°N 43.25°E · イエメン
本文
コーヒーの木のうち、いま世界で最も多く飲まれているアラビカ種は、エチオピア南西部の高地の森に自生していた。その実の力を誰がいつ見つけたのかは分からない。赤い実を食べたヤギが跳ね回るのを見たヤギ飼いのカルディの話や、追放された聖者が飢えて木の実を煮て飲んだという話がよく語られるが、どれも後世の伝説で、確かな記録ではない。カルディの話は、17世紀のヨーロッパの書物で初めて見えるものである。
記録でたどれる最初のコーヒーは、15世紀のイエメンにある。イスラーム神秘主義(スーフィー)の修行者たちが、夜を徹して神の名を唱える勤行のあいだ眠気を払うために、コーヒーの実を煎じた飲み物を飲んでいた。この飲み物は「カフワ」と呼ばれた。もとはワインを指す言葉の一つで、食欲を失わせるもの、といった意味を持っていたとされる。紅海の対岸のエチオピアから伝わった木は、やがてイエメンの山地の段々畑で育てられるようになった。

イエメンの豆は、紅海に面した港モカ(アル・ムハー)から積み出された。16世紀のうちに、コーヒーはメッカ、カイロ、ダマスカス、そしてオスマン帝国の都イスタンブルへと広がり、街角には人々が集まってコーヒーを飲み、話しこむ店が生まれた。コーヒーの店は、モスクとも家とも違う、新しい社交の場になった。
人が集まって話す場所は、為政者には危うく見えた。1511年、メッカの長官は、コーヒーの店で人々が政治や宗教について勝手なことを語り合っているとして、コーヒーを禁じた。この禁令は、上位にあるカイロのマムルーク朝のスルタンによって覆された。17世紀には、オスマン帝国のスルタン、ムラト4世がコーヒーの店を閉じさせ、タバコとともに厳しく取り締まった。それでも、コーヒーを飲む習慣は消えなかった。

17世紀、コーヒーはヨーロッパに入った。ヴェネツィアの商人が東方との交易を通じて持ちこみ、やがて各地にコーヒーの店ができた。異教徒の飲み物だと非難する聖職者に対し、ローマ教皇が実際に飲んでみてその味を気に入り、祝福を与えたという話が伝わるが、これも後世の逸話とされる。
イギリスでは1650年ごろにオックスフォードで、1652年にはロンドンのコーンヒルで最初のコーヒーハウスが開かれた。店はたちまち増え、17世紀の終わりには、ロンドンだけで数百軒を数えたといわれる。1ペニーほどの入場料を払えば、身分を問わず誰でも入れて、置いてある新聞や小冊子を読み、見知らぬ客と議論することができた。そのため「1ペニーの大学」と呼ばれた。ただし、女性は原則として客に含まれていなかった。店ごとに集まる人々の色があり、船主と保険を引き受ける商人が集まった店からは、のちの保険市場ロイズが育ち(ロイズと海上保険)、株の売買が行われた店は、のちの証券取引所の母体の一つになった。1675年、国王チャールズ2世は、コーヒーハウスは不満と中傷の温床だとして閉鎖を命じたが、猛反発を受けて、布告が効力を持つ前に撤回した。
パリでは1686年に開いたカフェ・プロコープが文人たちのたまり場になり、18世紀には啓蒙思想家たちが出入りした。1789年7月、パレ・ロワイヤルのカフェの前で、青年カミーユ・デムーランが市民に武器を取るよう呼びかけ、数日後にバスティーユが襲われた(フランス革命)。コーヒーの店は、ヨーロッパでも議論と情報の集まる場所になった。

ヨーロッパの需要が膨らむと、各国はイエメンに頼らず、自分の手で栽培しようとした。イエメンの側は、豆が他の土地で芽を出さないよう、輸出する豆を煎るか煮てから出したと言われる。だが苗や種は、やがて持ち出された。インドでは、17世紀にメッカ巡礼から帰った聖者ババ・ブーダンが7粒の種を隠して持ち帰り、南インドの山に植えたという伝えがある。
最も大きな動きはオランダから来た。オランダの商人は1616年にモカからコーヒーの木を持ち帰り、のちに東インド会社が、南インドからジャワ島へ苗を運んだ。1699年ごろに根づいたジャワのコーヒーは、やがて「ジャワ」がコーヒーそのものを指す言葉になるほど広まった。19世紀には、オランダは農民に作物を強制的に作らせる制度でジャワのコーヒーを増産する(ジャワの強制栽培制度)。

1714年、アムステルダム市はフランス王ルイ14世にコーヒーの木を一本贈り、木はパリの王立植物園の温室で育てられた。1720年代、フランスの海軍士官ガブリエル・ド・クリューが、その子孫にあたる苗をカリブ海のマルティニーク島へ運んだ。航海中、水が乏しくなったとき自分の飲み水を苗に分け与えて守ったと、彼自身が書き残している。そこから苗はカリブ海の島々へ、さらに中南米へと広がった。
カリブのコーヒーを支えたのは、アフリカから連れてこられた奴隷の労働だった。18世紀の終わり、フランス領サン・ドマングは世界のコーヒーの半分ほどを生産したとされるが、その島で1791年に奴隷たちが立ち上がる(ハイチ革命)。ブラジルには1727年に苗が持ちこまれた。国境の争いの仲裁で仏領ギアナを訪れたポルトガルの士官が、総督夫人から別れの花束に隠した苗を贈られたという話が伝わっている。19世紀のブラジルは奴隷の労働で世界最大の生産国となり、その地位は奴隷制の廃止(ブラジルの奴隷制廃止)の後も続いた。

いま、コーヒーは世界で最も広く取引される農産物の一つで、主な産地はブラジル、ベトナム、コロンビア、インドネシア、そして原産の地エチオピアである。モカという港はすでに砂に埋もれて寂れたが、その名はいまもコーヒーの銘柄や味わいを表す言葉として、世界中の店のメニューに残っている。