オスマン1世
概要
エルトゥールルの子。ビザンツの境の、ソユトの首長。1302年、バフェウスでビザンツの軍を破って、名が知られた。ブルサを囲んで、落ちる前に死んだ。剣。600年のあいだ、新しいスルタンは「オスマンの剣」を帯びて即位した。史料はほとんどなく、100年後の伝説で書かれている。「オスマンの夢」。
所属
オスマン帝国関わったできごと(1)
オスマン帝国の始まりAD1299年頃 · 始めた本文
600年続いた帝国に名を残しながら、本人について確かに分かっていることは驚くほど少ない。同時代の記録は、東ローマの歴史家がわずかに触れた数行と、いくつかの碑文、そして彼の名を刻んだとされる貨幣くらいである。生涯の大半は、彼の死から100年以上たった15世紀に、オスマン朝の年代記作者たちが書いた物語で伝わっている。

その物語によれば、一族はオグズ・トルコのカユ部族に属し、祖父スレイマン・シャーはモンゴルの侵入に追われて西へ移る途中、ユーフラテス川で溺れた。父エルトゥールルは、アナトリアを治めていたルーム・セルジューク朝のスルタンから、東ローマとの境にあるソユトの地を与えられた。カユ部族の系譜は後に王家の由緒を飾るために整えられたもので、どこまで事実かは分からない。オスマンは1258年ごろに生まれたとされ、1280年ごろ父の跡を継いだ。名は第3代カリフと同じアラビア語のウスマーンだが、もとはトルコ語のアトマンという名で、後に改めたという説もある。
ソユトはエスキシェヒルとブルサのあいだ、アナトリア北西部の高原の端にあった。当時、ルーム・セルジューク朝はモンゴルに屈して力を失い、アナトリアには大小のトルコ系の首長国がひしめいていた。一方、西の東ローマ帝国は、1261年にコンスタンティノープルを取り戻したばかりで、皇帝の目はバルカンに向き、小アジアの境の守りは手薄だった。オスマンの小さな集団は、この二つの力の隙間で育った。

彼は境のビザンツの領主たちと戦い、ときには手を結んだ。ハルマンカヤの領主で「髭なしのミハル」と呼ばれたビザンツ人は、オスマンと親しくなってイスラムに改宗し、その武将になった。子孫のミハルオウル家は16世紀までバルカンを荒らした騎兵隊の頭を務めている。キリスト教徒とムスリム、トルコ人とギリシア人が入り混じったこの辺境の性格は、のちの帝国にも受け継がれた。
彼の名がはじめて歴史書に現れるのは、1302年7月27日のバフェウスの戦いである。ニコメディア(現イズミット)に近いこの地で、ビザンツの将軍ムザロンの軍をオスマンの軍が破った。兵の数はビザンツ側が2000、オスマン側が5000ほどだったとされる。同時代のビザンツの歴史家パキュメレスがこの戦いを書き残し、ビザンツの農民がオスマンの支配する側へ逃げ始めたことも記している。オスマン朝の建国は伝統的に1299年とされるが(オスマン帝国の始まり)、その年に何があったかは確かめられない。

晩年の大きな目標は、豊かな町ブルサだった。オスマンの軍はブルサの周りに砦を築いて長く締めつけたが、城壁を破る力は無かった。彼は病に伏せることが多くなり、指揮は息子オルハンに移った。ブルサが降伏したのは1326年で、オスマンはその前後にソユトで死んだ。死んだ年は1323年か24年とする説もある。遺言で、ブルサの城内の、銀色の丸屋根の下に葬ってほしいと言ったと伝えられ、ブルサの丘に廟が建てられた。いまの廟は1855年の地震で崩れたあと、建て直されたものである。
王朝の始まりを語る物語として、「オスマンの夢」がよく知られている。若いオスマンが徳の高い長老エデバリの家に泊まった夜、長老の胸から昇った月が自分の胸に入り、そこから大木が伸びて枝が世界を覆い、その下を大河が流れる夢を見た。長老はこれを、天が王権を与えるしるしだと解き、娘を彼に嫁がせたという。15世紀の年代記に書かれた話で、帝国が大きくなってから、その始まりに天命の物語を与えるために語られたと考えられている。

彼の名はやがて王朝と国そのものの名になった。ヨーロッパの言葉の「オットマン」も、オスマンのなまりである。新しいスルタンは即位の儀式として、イスタンブールのエユプ・モスクで「オスマンの剣」を帯びた。この剣を帯びる儀式は、1918年に即位した最後のスルタン、メフメト6世まで続いた。
小さな首長国がなぜ大きくなれたのかは、20世紀の歴史家たちの論争の的になってきた。1930年代、オーストリア出身の学者ヴィテックは、異教徒との聖戦(ガザー)に燃える戦士たちの集団だったからだと説き、この考えは長く通説となった。しかしその後、オスマンの周りにはキリスト教徒の協力者が多く、戦いと同じくらい同盟や婚姻を重ねていたことが強調されるようになった。聖戦の旗印は、後の時代の年代記が王朝の始まりを飾るために使った言葉だったのではないか、という見方である。どちらの面もあったと考える研究者が多い。

確かなことだけを並べれば、名前、いくつかの戦い、そして息子オルハンとその子孫が作った国である。辺境の一首長にすぎなかった男が、なぜ後に三つの大陸にまたがる帝国の祖となったのか。その問いには、彼個人の才覚よりも、彼が立っていた場所、つまり衰えた二つの国の境目という位置が答えを与えている、と考える歴史家が多い。