マンサ・ムーサの巡礼

概要
マリ王が大量の金を配りながらメッカへ向かい、通り道の金相場を崩したと伝わる。
場所
16.77°N -3.01°E · マリ
関わった人(1)
マンサ・ムーサ?–AD1337年頃 · 当人本文
13世紀の前半、西アフリカのニジェール川の上流で、スンジャタ・ケイタがマンデ人の諸族をまとめ、マリ帝国を建てた(マリ帝国の成立)。マリの富の源は金である。南の森林地帯に近いバンブクやブレの金の産地を押さえ、サハラを越えて北アフリカへ向かう交易を握った。北からは塩や布、銅、馬が来て、南からは金と奴隷が出ていった。当時、地中海世界に出回る金のかなりの部分が、西アフリカから運ばれていたと考えられている。
マンサ・ムーサは、1312年ごろにマリの王(マンサ)になったとされる。即位の年も在位の長さも、史料によって食い違いがある。のちにカイロで本人が語ったところによれば、前の王は大西洋の果てを確かめようと大船団を出し、自ら海に出て戻らなかった。そのため自分が位を継いだ、という。この話がどこまで事実かは分からない。

1324年、ムーサはメッカへの巡礼に出た。イスラームの信徒にとって、生涯に一度の務めである。巡礼の隊列は数千人から数万人と伝わり、数字には大きな幅がある。後の時代の記録には、金の杖を持った500人の奴隷が先頭を歩き、ラクダが何十頭も金を運んだと書かれているが、誇張を含む可能性がある。確かなのは、ムーサが途方もない量の金を携えて旅をしたことである。
一行は7月、マムルーク朝の都カイロに着いた(マムルーク朝)。ムーサはスルタンのナースィルに謁見する際、床に口づけする礼を求められていったん拒み、神に対してひれ伏すのだという形で受け入れたと伝えられる。カイロに数か月とどまり、宮廷の役人や商人、町の人々に惜しみなく金を贈り、品物を買った。

その結果、カイロの金の値が下がった。十数年後にカイロでこの話を聞き取ったシリア出身の官僚ウマリーは、マリの王が来る前と比べて金の相場が下がり、その時点でもまだ戻っていないと書いている。一人の旅人が持ち込んだ金が、地中海世界でも有数の大都市の相場を動かしたことになる。ただ、ムーサは帰りの旅で金を使い果たし、カイロの商人から高い利子で金を借りて帰った。貸した商人の中には、返済を受けられなかった者もいたという。
巡礼から戻ったムーサは、メッカやカイロで出会った学者や職人を連れ帰った。その一人がアンダルス生まれの詩人で建築家のサーヒリーで、トンブクトゥのジンガレイベル・モスクは、彼の設計で建てられたと伝えられる。トンブクトゥやガオはマリの支配のもとで栄え、のちにイスラームの学問の中心地として知られるようになる。ムーサの治世には、ニジェール川の中流のガオの町も支配下に入ったとされ、マリの版図は大西洋岸から内陸の奥まで広がった。

この巡礼で、マリの名は地中海の向こうにまで届いた。1375年、地中海のマヨルカ島で作られた『カタルーニャ地図』には、サハラの南に、金の冠をかぶり、手に金の玉を掲げた黒人の王が描かれ、その国の金の豊かさが書き添えられている。マンサ・ムーサである。それまでヨーロッパの地図の空白だったアフリカの内陸に、名前と姿を持った王が置かれた。金を求めるヨーロッパの関心は、のちにポルトガルがアフリカの西岸を南へ下る動機の一つになる(ボハドル岬の突破)。
ムーサの死後、マリは内紛と周辺からの圧迫でしだいに衰え、15世紀にはガオを中心とするソンガイ帝国に取って代わられた。1352年から翌年にマリを訪れたイブン・バットゥータは、ムーサの弟の時代の宮廷の様子を書き残している(イブン・バットゥータの旅)。

いま、マンサ・ムーサは「史上最も裕福な人物」と紹介されることがある。だが、14世紀の王が国の金の産地を支配していたことを、現代の個人の資産と同じ物差しで測ることには無理がある。数字よりも確かなのは、サハラの南に、地中海世界の大都市を驚かせるほどの富と、それを動かす国家の仕組みがあったということである。