ムウタスィム
概要
ハールーンの子。母はトルコの奴隷。兄マームーンの下で、トルコ人の奴隷兵を集めた。カリフになって、サーマッラー。バーバクの反乱を鎮め、838年にビザンツのアモリオンを落とした。「8」の数字。8番目のカリフ、8人の息子、8人の娘、8年。
関わったできごと(1)
サーマッラーへの遷都AD836年 · 建てた本文
ムウタスィムは、アッバース朝の第八代カリフである。父はハールーン・アッラシード、兄は学問を保護したことで知られるマームーン。兄が「知恵の館」に学者を集めたのに対し、ムウタスィムが集めたのはトルコ人の奴隷兵だった。彼が始めたこの軍の仕組みは、その後千年近く、イスラーム世界の国家のあり方を左右することになる。

796年ごろ、バグダードで生まれた。母のマーリダは奴隷の出身で、中央アジアのソグドの出とも言われる。兄弟の中では学問に縁が薄く、読み書きもほとんどできなかったという話が伝わる。その代わり、腕力が強く、武芸を好んだ。
ハールーンの死後、ムウタスィムの二人の兄、アミーンとマームーンは帝位を争い、内戦の末にマームーンが勝った。この内戦で、それまでアッバース朝を支えてきたホラーサーンの軍やバグダードの民兵は分裂し、カリフは信頼できる軍を失った。王子のムウタスィムはこのころから、中央アジアの草原から連れてこられたトルコ系の少年たちを買い集め、自分に仕える騎兵として育て始めた。サーマーン朝の領地などを通じて買い入れられた彼らは、遊牧の暮らしの中で身につけた騎射の技に優れていた。のちに軍の中枢を握るアシュナース、イターフ、ワスィーフ、ブガーといった将軍たちも、もとはこうした奴隷だった。彼らには故郷の部族とのつながりも、帝国の中の後ろ盾もなく、主人であるムウタスィムだけに忠誠を尽くすと期待された。

兄マームーンの治世の後半、ムウタスィムはこの兵を率いてシリアやエジプトの反乱を鎮めた。833年、ローマ(ビザンツ)との戦いのために出陣していたマームーンが、小アジアの手前のタルススの近くで急死した。マームーンは死の直前、自分の息子アッバースではなく、弟のムウタスィムを後継ぎに指名していた。軍の一部はアッバースを推したが、アッバース自身が叔父に忠誠を誓い、ムウタスィムがカリフになった。
即位したムウタスィムは、兄の政策の一つを引き継いだ。クルアーンは神の言葉であっても永遠ではなく、神によって創られたものだという教えを、役人や学者に認めさせる審問である(ミフナ(審問))。これを拒んだ伝承学者アフマド・イブン・ハンバルは、ムウタスィムの前で鞭打たれた。のちにスンナ派の四つの法学派の一つの祖となる人物である。

一方、バグダードの町では、カリフの奴隷兵が市場で馬を走らせ、住民を傷つけて衝突が絶えなかった。836年、ムウタスィムはバグダードを離れ、ティグリス川を120キロほどさかのぼったサーマッラーに新しい都を築いた(サーマッラーへの遷都)。兵たちには出身ごとに区画を割り当て、市民と交わらせないようにした。トルコ兵には同じトルコ人の女奴隷をあてがって、現地の人々との婚姻も避けさせたと伝えられる。
ムウタスィムの治世は戦いに明け暮れた。アゼルバイジャンの山地では、バーバクという指導者のもとで、イスラーム以前の信仰の流れをくむ人々が20年にわたって反乱を続けていた。ムウタスィムはイラン系の将軍アフシーンにこれを討たせた。837年、アフシーンはバーバクの山城を落とし、本人を捕らえた。バーバクはサーマッラーに連れてこられ、象に乗せて引き回されたうえで処刑された。

838年には、ローマ帝国へ自ら大遠征を行った。前年、皇帝テオフィロスがアッバース朝の国境の町を攻め、住民を殺し連れ去ったことへの報復だった。ムウタスィムは、テオフィロスの家の故地とされる小アジアの町アモリオンを狙った。アフシーンが別の道でローマ軍を破り、ムウタスィムの本隊はアモリオンを包囲して、二週間足らずで攻め落とした。町は破壊され、多くの住民が殺され、あるいは捕虜にされた。詩人アブー・タンマームは、占星術師たちの不吉な予言を退けて勝ったカリフを讃え、剣は書物よりも真実を告げる、と歌った。
だが、勝利の立役者たちも安泰ではなかった。アフシーンは840年、ひそかに古い信仰を守っているとの疑いをかけられて投獄され、獄中で死んだ。

842年1月、ムウタスィムはサーマッラーで死んだ。40代の半ばだった。後世の人々は、彼を「八の人」と呼んだ。アッバース家の八代目のカリフで、在位が8年8か月、8人の息子と8人の娘を残し、8回の大きな戦いに勝った、といった話だが、多くは後から数を合わせて作られたものである。
ムウタスィムの死から20年ほどのち、861年、息子で第十代カリフのムタワッキルは、サーマッラーの宮殿でトルコ人の将軍たちに殺された。その後の十年近く、カリフはトルコ兵の手で立てられては廃された。主人だけに忠実なはずだった奴隷兵は、やがて主人を選ぶ側に回ったのである。それでも、外から買い入れた奴隷を兵や官僚に育てるという仕組みは、イスラーム世界の各地の王朝に広がった。エジプトに自立したトゥールーン朝の自立の祖もトルコ人の奴隷兵の子であり、のちのマムルーク朝は奴隷兵そのものが建てた王朝だった。