トゥール・ポワティエ間の戦い

概要
フランク軍がイスラム軍の北上を止めた。西ヨーロッパがイスラム圏に入らなかった分岐点とされる。
場所
47.39°N 0.68°E · フランス(戦場の位置は特定されていない)
関わった人(1)
カール・マルテルAD688年頃–AD741年 · フランク軍本文
7世紀にアラビア半島から広がったイスラームの勢力は、100年足らずで西は大西洋岸に達した。711年、ウマイヤ朝(カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース))のもとで北アフリカから海峡を渡った軍が西ゴート王国を倒し、イベリア半島の大部分を支配下に置いた。勢いはピレネー山脈を越え、720年ごろには地中海岸のナルボンヌを奪っている。その北に広がるガリアは、メロヴィング家の王を戴くフランク王国の土地だったが、王の力はすでに衰え、実権は各地の有力者が握っていた。
南西フランスのアキテーヌを治めるウードは、721年にトゥールーズでイスラーム軍を破り、一度は北上を食い止めた。しかし732年、アル・アンダルスの総督アブド・アッラフマーンが大軍を率いてピレネーを越えると、ウードはボルドーの近くで大敗し、町は略奪された。総督の軍はさらに北へ進み、ガリアで最も豊かな巡礼地の一つだったトゥールの聖マルティヌス修道院を目指したとみられている。

追い詰められたウードは、長く対立していた北のフランクの実力者に助けを求めた。それがアウストラシアの宮宰、カール・マルテルである。宮宰は本来、王の家政をあずかる役職だったが、カールの父の代からは事実上フランク王国を動かす地位になっていた。カールは各地の戦いで鍛えた兵を率いて南へ下り、トゥールとポワティエのあいだのどこかで、イスラーム軍の前に立ちはだかった。
戦いの日付は732年10月とされることが多いが、733年とする説もある。場所も正確には分かっていない。両軍の兵の数も、後世の年代記の記す数字は誇張が大きく、確かなことは言えない。数日のにらみ合いの後に戦いが始まった。754年にイベリア半島で書かれたキリスト教徒の年代記は、北の人びとが壁のように動かず、氷の帯のように固く身を寄せ合って、アラブの騎兵の突撃を剣で受け止めたと描いている。戦いのさなかに総督アブド・アッラフマーンが討ち死にすると、イスラーム軍は夜のうちに天幕を残したまま引き上げた。翌朝、カールの軍は空になった陣地を見つけた、と伝えられる。アラブの史書は、この戦場を「殉教者の舗道」と呼んで記憶した。

この勝利は、後世に大きな意味を負わされた。18世紀イギリスの歴史家ギボンは、もしこの戦いに負けていたら、いまごろオックスフォードの学校ではクルアーンの解釈が教えられていたかもしれない、と書いた。19世紀には、キリスト教ヨーロッパを救った決戦として語られるようになる。
しかし現在、多くの歴史家はこの評価を控えめに見ている。イスラームの側から見れば、この遠征は征服のための総力戦というより、豊かな修道院や町を狙った大規模な略奪の遠征だった可能性が高い。また、イスラーム世界はこのころ、東の辺境での戦い、そして740年に北アフリカで起きたベルベル人の大反乱に追われ、ピレネーの北へ本格的に広がる余力は乏しかった。イスラーム勢力はその後もしばらく南フランスに拠点を保ち、フランク側がナルボンヌを奪い返したのは759年のことである。トゥール・ポワティエの一戦だけで流れが決まったわけではない。

それでも、この戦いの意味が小さいわけではない。勝利によって、カールの威信は大きく高まった。彼は南フランスへたびたび兵を出してアキテーヌやプロヴァンスに支配を広げ、「マルテル(鉄槌)」というあだ名でも呼ばれるようになった。737年に王が死んでも、カールは新しい王を立てずに国を治めた。
カールの死後、息子のピピン3世(小ピピン)は751年、名ばかりのメロヴィング家の王を退けて自ら王位につき、ローマ教皇と手を結んだ(ピピンの寄進)。その子が、800年にローマで皇帝の冠を受けるカール大帝である(カール大帝の戴冠)。トゥール・ポワティエ間の戦いは、ヨーロッパ全体の運命を変えた決戦というより、カロリング家がフランク王国の主となり、西ヨーロッパの新しい秩序の中心へと上っていく、その道の大きな一歩だったといえる。