人物

ピーリー・レイース

Piri Reis
AD1465年頃 – AD1553年(享年88・推定)
オスマン帝国重要度 3

概要

オスマンの提督で地図製作者。1513年の世界図に南アメリカの海岸線が描かれており、その出どころが議論されている。

所属

オスマン帝国

関わったできごと(1)

ピーリー・レイースの世界図AD1513年 · 作図

本文

本名はアフメト・ムヒッディン。ピーリーは呼び名で、レイースは船長や提督を意味する称号である。1465年から1470年ごろ、ダーダネルス海峡に面した港町ゲリボル(ガリポリ)に生まれた。オスマン帝国の海軍の拠点となる町である。

ピーリー・レイースのキターブ・バフリエKitab-ı Bahriyeよりヨーロッパと地中海と北アフリカの地図
ピーリー・レイースのキターブ・バフリエKitab-ı Bahriyeよりヨーロッパと地中海と北アフリカの地図Wikimedia Commons Piri Reis · Public domain

叔父のケマル・レイースは、地中海の各地を荒らし回った私掠船(国の許しを得て敵の船を襲う船)の船長として名を上げた人だった。ピーリーは10代のはじめから叔父の船に乗り、北アフリカの沿岸、スペイン、イタリア、フランスの沖、エーゲ海の島々を回った。1492年のグラナダ陥落の後には、スペインから追われたイスラーム教徒やユダヤ教徒を北アフリカへ運ぶ仕事にも加わったとされる。

1490年代の半ば、ケマル・レイースはオスマン帝国のスルタン、バヤズィト2世に招かれ、帝国の海軍に入った。ピーリーも叔父とともにオスマン海軍の一員となり、1499年に始まったヴェネツィアとの戦争では、ギリシア沿岸の海戦や要塞の攻略に加わった。1511年、叔父は艦隊とともに嵐に遭って死んだ。ピーリーは故郷のゲリボルに戻り、集めてきた海図と記録の整理に打ち込んだ。

1513年、彼は一枚の世界図を描き上げた(ピーリー・レイースの世界図)。ガゼルの皮に描かれたその地図は、いまは西側の3分の1ほどの断片だけが残っている。大西洋が中央にあり、右にヨーロッパとアフリカの西岸、左に南アメリカの東岸とカリブ海の島々が描かれている。コロンブスの到達から21年しかたっていない時期に、新大陸の海岸を描いた現存する最も古い地図の一つである。

ピーリー・レイースの世界図に関わる図版:Piri reis world map 01
ピーリー・レイースの世界図Wikimedia Commons Piri Reis · Public domain

地図の余白には、ピーリー自身の書き込みがある。この地図は約20枚の古い地図と世界図をもとに作った。アレクサンドロス大王の時代の地図、アラブの地図、インドを描いたポルトガルの最近の地図、そしてコロンブスが描いた西方の地図である、と。叔父のケマル・レイースが海戦でスペインの船を捕らえたとき、コロンブスの航海に3度加わったという船乗りが捕虜になっており、その男が持っていたコロンブスの地図と話をもとに西の島々を描いた、とも書いている。コロンブス自身が描いた地図は一枚も残っていないため、この書き込みは、失われた地図の姿を伝える手がかりとして注目されてきた。

1517年、オスマン帝国のスルタンセリム1世がエジプトのマムルーク朝を征服したとき、艦隊の一員として従ったピーリーは、カイロでこの世界図をスルタンに献上したとされる。その後、地図は長く宮殿の倉にしまわれ、1929年、イスタンブールのトプカプ宮殿を博物館に改める作業の中で、偶然に見つかった。

1470年の地中海図。ピーリー・レイースの幼少期の地を示す
1470年の地中海図。ピーリー・レイースの幼少期の地を示すWikimedia Commons Original map created by Lynn H. Nelson; locations associated with Piri Reis added by Robert Jones . · CC BY 4.0

発見の後、この地図は思いがけない注目を浴びた。地図の南の端に、南アメリカの海岸から東へ折れ曲がるように描かれた陸地がある。1960年代、アメリカの著述家が、これは氷に覆われる前の南極大陸の海岸線であり、古代に高度な文明があった証拠だと唱え、大きな話題になった。だが、地図の歴史の研究者の多くは、羊皮の端に収めるために南アメリカの海岸線を東へ曲げて描いたものか、当時の想像上の南の大陸を描いたものとみており、南極説を支持する根拠は無いとしている。

ピーリーが残したもう一つの仕事が、航海の手引書『海洋の書』(キターブ・バフリエ)である。地中海の港、湾、岬、島、浅瀬、潮の流れ、風、水の補給地、上陸に適した場所を、一つ一つの海図と説明文で示した。1521年に最初の版をまとめ、1526年には、大宰相イブラヒム・パシャのすすめで内容を大きく増やした改訂版をスルタンスレイマン1世に献上した。写本によって200枚を超える海図を含み、当時の地中海の航海の知識を集めた書物として、いまも多くの写本が残っている。1528年には二枚目の世界図も描いたが、こちらも北大西洋のあたりの断片しか残っていない。

近世のガレー船の模型
近世のガレー船の模型Wikimedia Commons Contemporary model attributed to the model workshop of Toulon arsenal. · Public domain

晩年のピーリーは、遠いインド洋で戦った。ポルトガルはヴァスコ・ダ・ガマのインド航路以来、インド洋の交易路を押さえようと各地に要塞を築き、紅海やペルシア湾にも進出していた。オスマン帝国はこれに対抗するため、紅海の港スエズに艦隊を置いた。1547年ごろ、80歳前後のピーリーはその艦隊の提督に任じられ、1548年には紅海の出口のアデンを奪い返した。

1552年、ピーリーは艦隊を率いてアラビア半島を回り、ペルシア湾の入口にあるポルトガルの要塞ホルムズを包囲した。アラビア半島の港町マスカットは攻め落としたが、ホルムズの要塞は落とせなかった。ポルトガルの大艦隊が近づいているとの知らせを受けると、彼は艦隊の大部分をバスラに残し、わずかな船と戦利品を持ってスエズへ引き返した。帰路で1隻を失っている。

ピーリー・レイースの地図に見るロドス島(赤線)とアナトリア(紺線)
ピーリー・レイースの地図に見るロドス島(赤線)とアナトリア(紺線)Wikimedia Commons Piri Reis · Public domain

艦隊を置き去りにしたことは、命令に背き、敵を前に逃げた罪とされた。1553年、ピーリー・レイースはカイロで処刑された。80代だったとみられる。彼が残した世界図と『海洋の書』は、いまイスタンブールのトプカプ宮殿などに収められ、トルコでは海の英雄として、その名が艦艇や海洋調査船に付けられている。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1465年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →