できごと

ダウ船とモンスーン

The dhow and the monsoon
AD1000年頃
重要度 4
バントゥー系の人びと西アフリカの穀作農民コイサンマクリアチョーラ朝チャールキヤ朝マダガスカルアルワイスラムの都市国家群ハドラマウトグレート・ジンバブエイエメンカリンガカネムメリナ王国(拡大期)AD1000年頃キルワ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1000年頃の版図を描いています(15勢力)。

概要

インド洋は、季節で風向きが反転する。夏は南西から、冬は北東から。この規則性を掴めば、帆船は往復できる。紀元1世紀の『エリュトラー海案内記』に既に書かれている。ダウ船は、板を釘でなく椰子の繊維で縫い合わせ、三角の帆(ラティーン・セイル)で風上へも切り上がった。アラビア、ペルシア、インド、東アフリカを結び、季節ごとに港で数か月を過ごした。スワヒリの都市は、その待ち時間の上に建った。

場所

キルワ
-8.96°N 39.51°E · タンザニア

本文

インド洋は、ほかの大洋と違う。北側をアジアの大陸にふさがれているため、季節によって風向きがほぼ逆になる。夏、大陸の内陸が熱せられると空気が上昇し、海から陸へ向かって南西の風が吹く。冬、内陸が冷えると逆に、陸から海へ北東の風が吹く。おおむね冬の北東風は11月から3月ごろ、夏の南西風は5月から9月ごろまでで、その間には風の弱い、変わり目の季節がある。

この規則性をつかめば、帆船は行って帰ってくることができる。冬の北東風に乗ってアラビアやインドから東アフリカへ南下し、夏の南西風で戻る。インド西岸とアラビアの間も、風を選べば往復できる。ただし、行きと帰りの間には、数か月、風が変わるのを待たなければならない。「モンスーン」という言葉は、季節や、年に一度の市の時期を表すアラビア語の「マウスィム」から来たとされる。

ペルシア湾のダウ船(シュアーイ型)
ペルシア湾のダウ船(シュアーイ型)Wikimedia Commons Shane T. McCoy · Public domain

紀元1世紀にギリシア語で書かれた航海の手引き『エリュトラー海案内記』(『エリュトラー海案内記』)は、ヒッパロスという航海者がこの風を使ってアラビアから外洋をまっすぐインドへ渡る道を見つけた、と伝えている。だが実際には、アラブやインドの船乗りはそれよりずっと前からこの風を知っていて、ローマの側がそれを学んだと考えるのが自然である。ローマ帝国の時代には、エジプトの紅海の港から毎年多くの船がインドへ向かい、胡椒を持ち帰った。

この海を行き来した船を、まとめてダウと呼ぶ。ダウは一つの型の名ではなく、アラビア、ペルシア湾、東アフリカ、インド西岸の伝統的な木造の帆船の総称で、大きさや形、用途によってさまざまな名がある。

カタールの砂漠近くのダウ船
カタールの砂漠近くのダウ船Wikimedia Commons Mohamod Fasil · CC BY 2.0

古いダウの最大の特徴は、船体の作り方にあった。船板を鉄の釘で留めるのではなく、ココヤシの実の繊維をよった紐で縫い合わせ、継ぎ目に詰め物や樹脂を塗って水を止めた。縫った船体はしなやかで、浅瀬や珊瑚礁に乗り上げても割れにくく、傷んでも紐を替えれば直せた。鉄が貴重で、船材になる木も限られた土地の知恵である。13世紀にペルシア湾の港でこうした船を見たマルコ・ポーロは、釘を使わない船は危なっかしいと書き残している。海の中には磁石の山があって、鉄の釘を使った船は釘を抜かれて沈む、という伝説も語られた。

1998年、インドネシアのブリトゥン島の沖で、9世紀の沈没船が見つかった。縫い合わせて造られた西アジア系の船で、中に唐の陶磁器が6万点近く積まれていた。アラビアやペルシアの船が、モンスーンに乗って中国まで陶磁器を買いに行っていたことを、実物で示した発見である。のちにオマーンは、この船を手本に昔の方法で縫った船を造り、2010年にマスカットからシンガポールまで帆走させている。

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Wikimedia Commons 9591353082 at English Wikipedia · CC BY 2.5

帆は、長い斜めの帆桁に張った大きな三角形、あるいはそれに近い四辺形の帆だった。この形の帆は、真横からの風を受けて走れるだけでなく、ジグザグに進路を取れば風上へ向かって切り上がることもできる。季節風という大きな流れに乗りつつ、港に出入りするときの細かい風にも対応できた。

ダウが運んだものは多い。アラビアやペルシアからは馬、なつめやし、乳香、ガラス、絨毯が、インドからは胡椒、綿布、米、ビーズが運ばれた。東アフリカからは象牙、金、鉄、獣皮、そして建材にするマングローブの丸太が積み出された。木の乏しいアラビアやペルシア湾の町では、東アフリカの丸太が家の梁になった。そして、奴隷として売られた人々も運ばれた。中国の陶磁器は、東アフリカの海岸の遺跡からも数多く見つかっている。

ダウ船を描いたアデンの切手(1937年)
ダウ船を描いたアデンの切手(1937年)Wikimedia Commons Public domain

このモンスーンの往来の上に、東アフリカの海岸に交易都市が連なった(スワヒリ海岸の交易都市)。モガディシュ、ラム、マリンディ、モンバサ、ザンジバル、キルワ。珊瑚石を積んだ家とモスクが建ち並び、アラビアやペルシアやインドから来た商人と、土地のバントゥー系の人々が交わって、イスラームを信じる独自の社会が生まれた。キルワは内陸のジンバブエの金を扱って栄え(キルワとインド洋交易)、1331年に訪れたイブン・バットゥータは、その美しさをたたえている。

風待ちの数か月が、この社会を作った。船乗りや商人は港に宿を取り、取引の相手と言葉を交わし、土地の女性と結婚して家を持った。両岸に家族を持つ商人の網が、海を一つの世界につないだ。交易の言葉として育ったスワヒリ語は、バントゥー系の言葉の骨組みに、アラビア語から入った多くの語を取りこんでいる。同じことは、インド西岸のグジャラートやマラバル、さらにマラッカでも起きていた。15世紀の初めには、明の鄭和の大艦隊も、この季節風を使って東アフリカまで来ている。

ダウ船が描かれた10ルピー紙幣(ジョージ6世時代)
ダウ船が描かれた10ルピー紙幣(ジョージ6世時代)Wikimedia Commons Reserve Bank of India · Public domain

1498年、ヴァスコ・ダ・ガマの船隊は東アフリカのマリンディで水先案内人を雇い、モンスーンに乗ってインドのカリカットへ渡った(ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路)。この水先案内人を、アラブの名高い航海者イブン・マージドとする伝えがあるが、根拠は乏しく、グジャラートの船乗りだったとする見方もある。その後ポルトガルは、大砲を積んだ船で要所の港を押さえ、通行証を持たない船を拿捕する制度を敷いた。それまで武力をほとんど伴わずに行われていた海の交易に、海上での暴力が持ちこまれた。

それでもダウは消えなかった。季節風に乗る往来は、19世紀、さらに20世紀の半ばまで続いた。いまもエンジンを積んだダウが、ペルシア湾とインド、東アフリカの港を行き来している。

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