レコンキスタの完了

概要
800年続いたイベリアのイスラム支配が終わった。同じ年、その資金でコロンブスが出航する。
場所
37.18°N -3.60°E · スペイン
関わった人(1)
イサベル1世AD1451年4月22日–AD1504年11月26日 · カスティーリャ女王本文
711年、北アフリカから海峡を渡ったイスラームの軍勢は、わずか数年で西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島のほとんどを支配下に置いた。半島はアラビア語でアル・アンダルスと呼ばれ、10世紀には後ウマイヤ朝の都コルドバが、ヨーロッパ最大級の都市として栄えた(後ウマイヤ朝)。北の山地に逃れたキリスト教徒の小さな国々は、それから何世紀もかけて少しずつ南へ領土を広げていった。のちに「レコンキスタ(再征服)」と呼ばれる長い過程である。
それは、宗教の旗印を掲げた一直線の戦いではなかった。キリスト教の王国どうしも争い、イスラームの小王国と手を結ぶこともあった。キリスト教徒、イスラーム教徒、ユダヤ教徒が同じ町に暮らし、学問や技術を交わした時代も長い。それでも、1085年のトレドの陥落、1212年のラス・ナバス・デ・トロサの戦いを経て、13世紀半ばまでにコルドバもセビーリャもキリスト教徒の手に落ちた。半島に残ったイスラームの国は、南東の山がちな土地のナスル朝グラナダ王国だけになった。

グラナダは、それから250年近く生き延びた。カスティーリャ王国に臣従して貢ぎ物を納め、北アフリカの国々とも結び、巧みな外交で独立を保った。その王たちが都の丘の上に築いたのが、アルハンブラ宮殿である。泉と水路、繊細な漆喰の透かし彫りと幾何学の文様に彩られた宮殿は、アル・アンダルスの文化の最後の輝きとなった。
15世紀後半、情勢は大きく変わった。1469年に結婚したカスティーリャの王女イサベル1世とアラゴンの王子フェルナンドが、それぞれの王位を継ぎ、二つの大国が一組の夫婦の下で手を結んだのである。1482年、両王はグラナダへの戦争を始めた。グラナダの側は、王ムレイ・ハサンと、その息子ムハンマド12世(スペインではボアブディルと呼ばれる)、王の弟が王位をめぐって争い、内側から割れていた。ボアブディルは一度カスティーリャの捕虜となり、両王に臣従することを約束して解き放たれている。

戦争は10年に及んだ。カスティーリャ軍は大砲で城や町を一つずつ落としていった。1487年には港町マラガが長い包囲の末に降伏し、住民の多くが奴隷として売られた。1491年、両王はグラナダの町を見下ろす平野に石造りの陣営の町サンタ・フェを築き、包囲を続けた。冬が近づき、食糧の尽きかけたボアブディルは、ひそかに降伏の交渉を進めた。
1491年11月、降伏の条件が取り決められた。イスラーム教徒は信仰を守り、モスクを使い続け、自分たちの法で裁かれ、財産を保つことができる。望む者は北アフリカへ移ることもできる。寛大な内容だった。1492年1月2日、ボアブディルはアルハンブラの鍵を両王に引き渡した。711年の上陸から781年後、イベリア半島のイスラームの政権はここに終わった。

ボアブディルは山あいの領地へ退き、のちに北アフリカのフェズへ移った。グラナダを去る途中、峠で振り返って町を眺め、ため息をついて涙を流したという。そのとき母が、男として守れなかったものを女のように泣くがいい、と言い放ったという話はよく知られるが、後世に作られた逸話とみられている。その峠は、いまも「ムーア人の最後のため息」と呼ばれている。
降伏の約束は、長くは守られなかった。1499年、トレドの大司教シスネロスがグラナダで強引な改宗を進めると、イスラーム教徒の反乱が起きた。これを口実に、1502年、カスティーリャのイスラーム教徒は改宗か国外退去かを迫られた。改宗した人びとは「モリスコ」と呼ばれ、その後も疑いの目を向けられ続け、17世紀のはじめに半島から追放された。

グラナダの陥落からわずか3か月後の1492年3月、両王は、キリスト教に改宗しないユダヤ人を国外へ追放する勅令を出した。去った人の数は数万から十数万まで、推計に幅がある。そして4月、両王はグラナダ近くのサンタ・フェの陣営で、西の海を越えてアジアを目指すというコロンブスの計画を認めた。長い戦争が終わり、王室が新しい事業に目を向けられるようになったことが背景にあったとされる。8月、コロンブスの船団が出航する(コロンブスの到達)。
レコンキスタの完了は、宗教的に一つにまとまった国を目指すスペインの始まりであり、同時に、多様な人びとが共に暮らしたアル・アンダルスの時代の終わりでもあった。半島の中で終わった戦いの勢いは、同じ年、大西洋の彼方へ向かっていった。