アブド・アッラフマーン3世
概要
21歳で崩れかけた国を継ぎ、20年で立て直し、929年にカリフを名乗った。バグダードのカリフと対等に。コルドバの郊外に宮殿都市を建て、50年治めた。「幸福だった日を数えたら14日だった」と書き残した。
所属
後ウマイヤ朝関わったできごと(2)
コルドバのカリフ宣言AD929年 · カリフメディナ・アッザフラーAD936年 · 建てた本文
アブド・アッラフマーン3世は、891年頃、イベリア半島のコルドバで生まれた。祖父アブドゥッラーは、イベリア半島を治めるウマイヤ家のアミール(総督にあたる君主)だった。父ムハンマドは、彼が生まれて間もなく、叔父にあたる祖父の別の息子に殺された。母ムズナは北方のキリスト教国から連れてこられた女性で、祖母もナバラの王女だった。年代記によれば、彼は色白で赤みがかった金髪と青い目をしており、アラブ人らしく見えるよう髭を黒く染めていたという。
この王家は、750年にダマスカスのウマイヤ朝がアッバース家に倒されたとき(アッバース革命)、ただ一人逃れてイベリアに渡ったアブド・アッラフマーン1世が開いたものである(後ウマイヤ朝)。だが9世紀の末には、国は崩れかけていた。アラブ系の有力者、北アフリカから来たベルベル人、そしてイスラームに改宗したイベリア系の人々(ムワッラド)が各地で背き、なかでも南部の山城ボバストロに拠ったウマル・イブン・ハフスーンは、30年にわたってコルドバに抵抗し続けていた。祖父の治世の終わりには、アミールの命令が届くのはコルドバの周辺だけになっていた。

912年10月、祖父が死ぬと、21歳のアブド・アッラフマーンが、叔父たちを差し置いて跡を継いだ。祖父が早くから後継ぎとして育てていたとされる。彼は毎年のように自ら兵を率い、背いた町と城を一つずつ取り戻した。913年にセビーリャ、917年にイブン・ハフスーンが死ぬと、その息子たちの抵抗を抑え、928年にボバストロを落とした。932年には2年の包囲の末にトレドを降した。北のキリスト教国との境では、レオン王国やナバラ王国と戦った。
929年、アブド・アッラフマーンはカリフを名乗り、「アン・ナースィル・リ・ディーニッラー」(神の宗教の勝利者)の称号をとった(コルドバのカリフ宣言)。それまで、イスラーム世界でカリフはバグダードのアッバース家だけだった。ところが909年、北アフリカで、預言者の娘ファーティマの子孫を名乗るファーティマ朝がカリフを称していた(ファーティマ朝の成立)。アッバース朝の権威は衰えていた。ダマスカスのウマイヤ朝の血を引く自分にこそその称号はふさわしい、というのが彼の言い分だった。

939年、彼は大軍を率いてレオン王国に攻め込んだが、シマンカスでラミロ2世に大敗し、命からがら逃れた。それ以後、彼は自ら軍を率いることはなかった。軍の中心には、東ヨーロッパなどから連れてこられた奴隷出身の兵士(サカーリバ)や北アフリカのベルベル人の傭兵を置き、自分に逆らいかねないアラブ貴族を遠ざけた。一方で、北アフリカの港セウタやタンジールを押さえ、ファーティマ朝の勢力が海峡を越えてくるのを防いだ。
カリフの宮廷には各国の使節が訪れた。949年、ビザンツ皇帝コンスタンティノス7世は、ギリシア語で書かれたディオスコリデスの薬物誌の豪華な写本を贈った。コルドバにはギリシア語を読める者がいなかったため、のちに修道士ニコラオスが送られてきて、アラビア語への翻訳を助けた。950年代には、ドイツのオットー1世の使節として修道士ゴルツェのヨハネスが来たが、持参した書簡にイスラームを非難する言葉があったため、カリフは3年近く謁見を許さなかった。宮廷の医師で外交官を務めたユダヤ人ハスダイ・イブン・シャプルートは、北方の太りすぎて王位を追われたレオン王サンチョ1世を治療したと伝えられる。サンチョは祖母のナバラ女王トダに伴われてコルドバまで来て、減量の治療を受け、カリフの兵の助けで王位に戻った。

936年頃、カリフはコルドバの西の山裾に、宮殿都市マディーナト・アッザフラーの建設を始めた(メディナ・アッザフラー)。大理石の柱と黄金の水盤を備えた広間で、カリフは使節たちを迎えた。名前は寵愛した女性にちなむという話があるが、これは後世の伝えである。コルドバの大モスクにも新しいミナレットを加えた(コルドバの大モスク)。
家族には厳しかった。949年頃、息子のアブドゥッラーが、兄で後継ぎのハカムに代えて自分を立てようとする企てに加わると、カリフはこの息子を処刑した。
961年10月、アブド・アッラフマーン3世は約70歳で死んだ。在位は約50年に及んだ。後世の史家によれば、死後に見つかった手記に、50年の治世で心から幸福だった日を数えたところ14日しかなかった、と書かれていたという。跡を継いだハカム2世は学問を好み、大きな図書館を築いた。だがその次の代には、宰相のマンスールが実権を握る。1031年、カリフの位は内乱の中で絶え、アンダルスは多くの小王国に分かれていく。