バグダードの陥落

概要
モンゴル軍がアッバース朝を滅ぼした。イスラム世界の学問の中心が失われる。
場所
33.32°N 44.37°E · イラク
関わった人(1)
ナスィールッディーン・トゥースィーAD1201年2月18日–AD1274年6月26日 · 同行した本文
バグダードは、762年にアッバース朝のカリフ、マンスールがティグリス川のほとりに築いた円形の都に始まる(バグダードの建設)。9世紀には人口数十万を数える世界有数の大都市となり、ギリシアやペルシア、インドの書物がアラビア語に訳されて、学問と商業の中心として栄えた(バグダードの知恵の館)。しかし10世紀以降、カリフは政治の実権を失い、ブワイフ朝やセルジューク朝の軍事政権に守られる宗教上の権威にすぎなくなった(ブワイフ朝のバグダード入城)。13世紀のカリフ、ムスタアスィムが直接治めていたのは、イラクのごく一部だった。それでも、ムハンマドの叔父の血を引くカリフの都は、イスラーム世界の象徴であり続けていた。
そのころ、東から巨大な力が迫っていた。チンギス・ハンの孫で、大ハーン・モンケの弟にあたるフラグが、西アジアの平定を命じられて1253年に出発したのである(モンゴル帝国の拡大)。フラグはまず、イランの山中に城を構えて恐れられていたイスマーイール派の教団を攻め、1256年に本拠のアラムート城を降した。このとき城にいた学者のナスィールッディーン・トゥースィーは、そのままフラグに仕えることになる。

フラグは次に、カリフに服属を求めた。ムスタアスィムは、自分に手を出せばイスラーム世界全体が立ち上がると返事をして拒んだ。しかしカリフの軍は小さく、宮廷では宰相と軍の司令官が対立していた。1258年1月、モンゴル軍は中国から連れてきた技術者が操る投石機を並べてバグダードを包囲し、城壁を崩した。逃げ道をふさがれた市内は、2月10日に降伏した。
数日後から、略奪と殺戮が始まった。それは1週間ほど続いたとされる。住民は家の中や路上で殺され、モスクや宮殿、病院が焼かれた。死者の数は、少ないものでは数万、多いものでは80万を超えるまで、記録によって大きく違う。フラグ自身はのちにフランス王への手紙で20万と記したと伝えられる。一方で、フラグの妃がネストリウス派のキリスト教徒だったこともあり、キリスト教徒は教会に避難して難を逃れた。図書館の書物がティグリス川に投げ込まれ、流れたインクで川が黒く染まった、という話は広く知られるが、これは後世の記録に見える誇張を含んだ伝えとみられる。
カリフ・ムスタアスィムは捕らえられ、財宝のありかを明かさせられた後、殺された。王族の血を地に流すことを避けるモンゴルの習わしに従い、絨毯に巻かれ、馬に踏ませて殺されたと伝えられる。500年続いたアッバース朝のカリフ位は、ここで断絶した。
バグダードの陥落は、イスラーム世界に深い衝撃を与えた。アラブの詩人や歴史家たちは、世界の終わりが来たかのような言葉でこの災厄を嘆いている。フラグはイランを中心にイル・ハン国を建て(イル汗国)、モンゴルの勢いはシリアへと向かった。しかし1260年、エジプトのマムルーク朝の軍がアイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍を破り、その西進は止まる。マムルーク朝のスルタンは翌年、アッバース家の生き残りとされる人物をカイロに迎えてカリフに立てた。カリフの名はその後もカイロで続いたが、政治の力は持たなかった。

イラクの土地が受けた打撃は長く残ったとされる。バグダード周辺の豊かな農業は、ティグリスとユーフラテスの水を引く運河網に頼っていたが、戦乱で人が減り、運河を保つ力が失われた。ただし、運河網の荒廃は陥落以前からすでに進んでいたことも分かっており、すべてをモンゴルの破壊に帰することはできない。バグダードは一地方都市となり、イスラーム世界の中心はカイロへ、また東のタブリーズやのちのサマルカンドへと移っていった。
かつては、この陥落でイスラーム世界の学問の黄金時代が終わった、と語られることが多かった。しかし近年は、その見方は改められている。トゥースィーはフラグの支援を受けて1259年にイラン北西部にマラーガ天文台を開き、各地の学者を集めて天文学を大きく進めた。モンゴルの宮廷のもとで、中国とイスラーム世界の知識が行き交い、歴史書や医学の大著も生まれている。バグダードの陥落は一つの時代の終わりであると同時に、学問の中心が移り、新しい結びつきが生まれる始まりでもあった。