イブン・バットゥータ
概要
21歳で巡礼に出て、30年かけて12万kmを歩いた。インド・中国・マリまで行き、帰ってから口述で『大旅行記』を残す。マルコ・ポーロの三倍の距離になる。
関わったできごと(2)
モガディシュの隆盛AD1331年(イブン・バットゥータの訪問) · 訪れたイブン・バットゥータの旅AD1325年 · 旅人本文
1304年2月24日、モロッコ北端の港町タンジールに生まれた。家はベルベル系の一族で、代々イスラーム法の学者や法官を出していた。本人も若い頃から法学を学んでいる。

21歳、モロッコのタンジールからメッカ巡礼に出た。1325年6月、一人で、ろばに乗っての出発だった。両親を残して家を出るのはつらく、鳥が巣を離れるように故郷を離れた、と旅行記に書いている。北アフリカの海岸沿いを東へ進み、途中で隊商に加わり、旅のさなかに結婚もした。エジプトのアレクサンドリアで会った聖者から、あなたはインドとシンドと中国を訪ね、そこで私の兄弟たちに会うだろう、と告げられたという。
戻るつもりだったが、行った先で法官の職が得られた。イスラーム法はどこでも同じなので、学んだ者はどこでも働ける。アラビア語は学問と信仰の共通語で、モロッコの法学者は、ペルシアでもインドでも尊敬される客だった。各地の支配者は、遠方から来た学者を手厚くもてなし、贈り物をし、職を与えた。この一点が、30年の旅を可能にした。
1326年にメッカに着いて巡礼を果たすと、帰らずにイラクとペルシアへ向かい、モンゴル系のイル・ハン国の君主の行列に加わって旅をした。その後もメッカに長く滞在し、紅海を渡ってイエメンへ、さらにアフリカ東岸を南下して、モガディシュやキルワといったスワヒリの交易都市を訪れている(イブン・バットゥータの旅)。

エジプト、アラビア、東アフリカ、アナトリア、キプチャク草原、中央アジア、インド。アナトリアの小さな君侯たちの宮廷を渡り歩き、黒海を越えて、モンゴル系のキプチャク・ハン国の君主ウズベク・ハンの陣営を訪ねた。旅行記によれば、ビザンツ皇帝の娘だったハンの妃の一人がコンスタンティノープルの実家に里帰りする際、その一行に加わってビザンツの都を見たという。その後、中央アジアの草原とアフガニスタンの山を越えて、1333年にインダス川に達した。
デリー・スルタン朝には8年仕えた(デリー・スルタン朝の成立)。スルタンのムハンマド・ビン・トゥグルクは、外国の学者を好み、気前よく報酬を与えた。彼はデリーの法官に任じられ、大きな俸給を得た。だがこのスルタンは、気前のよさと同じだけ残酷で、気まぐれに人を処刑した。彼自身も一時は疑いをかけられ、身の危険を感じて修行者のような暮らしに入ったと書いている。

1342年、中国の元への使節を任されて南インドから海に出た。ところが西海岸のカリカットで、贈り物と随員を載せた船が出港を前に嵐で沈み、彼は一人取り残された。スルタンのもとへ戻れば罰を受けかねない。彼は南へ向かい、インド洋のモルディブ諸島へ渡った。
モルディブでは法官として島の慣習を改めさせようとした。女性が上半身を覆わないことに難儀し、自分の法廷に来る女性には服を着させようとしたが、うまくいかなかったと書いている。島の有力者の娘たちと結婚して1年半ほど暮らしたが、権力争いに巻き込まれて島を去った。その後、スリランカで、アダムの足跡があると信じられた山に登り、ベンガルを経て、スマトラ島のイスラームの港町に至った。

そこから中国の泉州に着いたと旅行記は語る。大きな港と、各地から来た商人、紙の紙幣、ムスリムの居住区の様子が書かれている。ただし、さらに北の杭州や大都(北京)まで行ったという部分には、記述があいまいで矛盾も多く、実際に行ったのかを疑う研究者が多い。
1346年頃から帰路につき、シリアのダマスカスで、恐ろしい疫病の流行に出会った(黒死病)。一日に二千人以上が死んだと記している。1349年に故郷へ戻ると、母はすでにこの疫病で亡くなっていた。父の死はさらに前のことだった。
それでも旅は終わらなかった。イベリア半島に残るイスラームの国グラナダを訪ね、1352年には、サハラ砂漠を越える隊商に加わって西アフリカのマリ王国へ向かった(マリ帝国の成立)。四半世紀ほど前にマンサ・ムーサが大量の金を携えて巡礼し、カイロの金相場を下げたことで知られる国である(マンサ・ムーサの巡礼)。彼は、マリの人々の治安の良さと礼拝の熱心さを称える一方、王からの贈り物が少ないことに不満を述べ、女性が男性と自由に交わることに驚いている。ニジェール川の町トンブクトゥも訪れた。

帰国後、スルタンの命で口述を書き取らせた。マリーン朝のスルタン、アブー・イナーンは彼を都フェズに迎え、若い文人イブン・ジュザイイに旅の話を筆録させた。1355年頃に完成したその書物は『大旅行記』として知られ、本来は『諸都市の珍しさと旅の驚異を見る者への贈り物』という長い題を持つ。
記憶違いも、他人の旅行記からの借用も混じっているとされる。メモの多くは旅の途中で失われたと本人が語っていて、数十年前の出来事を記憶から語っている。筆録者が、12世紀の旅行家イブン・ジュバイルの文章をそのまま借りた箇所もある。それでも14世紀のイスラーム世界の広さを、一人の目線で通して見られる史料は他にない。旅の距離は、合わせておよそ12万キロと見積もられている。半世紀ほど前のマルコ・ポーロの旅のおよそ三倍にあたる。

晩年はモロッコの地方の町で法官を務めた。死んだ年は1368年か1369年とされるが、1377年とする説もある。旅行記はイスラーム世界でも長くあまり知られず、19世紀にヨーロッパの学者が写本を見つけてフランス語に訳し、広く読まれるようになった。いまタンジールには、彼の墓とされる場所がある。