マアッラの虐殺
概要
降伏した町で数千人が殺された。飢えた十字軍兵が死体を食べたことを、当時のフランク人自身の年代記が記している。アラブ側の記憶に最も深く残った事件になる。
場所
35.65°N 36.68°E · シリア・イドリブ県
本文
1095年、教皇ウルバヌス2世の呼びかけに応えて(十字軍の呼びかけ)、西ヨーロッパの諸侯と騎士、そして膨大な数の貧しい人びとが東へ向かった。第1回十字軍である。1097年にアナトリアを横断し、シリア北部の大都市アンティオキアを8か月かけて包囲して、1098年6月に落とした。その直後に救援に来たモスルの大軍も、辛うじて打ち破った。
勝ったあと、軍は動けなくなった。夏の暑さと疫病で多くが死に、指導者たちはアンティオキアを誰のものにするかで争い始めた。南イタリアのノルマン人ボエモンは自分のものにしようとし、南フランスのトゥールーズ伯レーモンはそれを認めなかった。エルサレムへの進軍は、半年近く止まったままになる。食料は乏しく、とくに馬も金も持たない貧しい兵や巡礼の人びとは飢えていた。

11月の終わり、レーモンの軍はアンティオキアの南東、マアッラト・アン=ヌウマーンの町を包囲した。オリーブの林に囲まれた豊かな町で、11世紀の半ばに亡くなった盲目の大詩人マアッリーの故郷としても知られていた。ボエモンの軍も後から加わった。町の守りは固く、包囲は2週間あまりに及んだ。12月11日、十字軍は城壁に攻め上がった。
夜、ボエモンは通訳を送り、宮殿の一角に逃げ込めば命を保証すると住民に伝えたとされる。住民は、命の保証と引き換えに抵抗をやめた。翌朝、町に入った兵たちは、その約束を守らなかった。数日にわたって住民を殺し、生き残った者は奴隷として売られ、アンティオキアへ連れ去られた。死者の数は数千とされる。13世紀のアラブの歴史家は10万人と書いたが、それは町の人口を大きく超えると見られている。

そのあとに起きたことを、アラブの側だけでなく、十字軍とともにいたフランク人の年代記作者たちが記している。食料が尽き、飢えた兵たちが、死者の体を切り取って煮て食べた。レーモン伯の従軍司祭だったアギレールのレーモンは、民は死体を食べた、と書いた。その場にはいなかったが、別の年代記作者フーシェ・ド・シャルトルも、口にするのもおぞましいことだが、と前置きして同じことを記している。少し後の世代のカーンのラウールは、さらに凄惨な描写を残した。
ある者はそれを飢えのせいだとし、ある者は、軍の中にいた最も貧しく荒々しい一団のしわざだとした。後の時代の叙事詩では、この一団は敵を恐れさせるためにわざと人を食べたように描かれる。どこまでが事実で、どこからが誇張や伝説なのかは、いまも見極めにくい。ただ、十字軍の側の複数の記録が、自分たちの恥となる出来事として認めていることは重い。
マアッラの町は、そのまま十字軍の争いの種になった。レーモンが町を自分のものにしようとして動かないでいると、1099年の1月、しびれを切らした兵や巡礼の人びとは、町の城壁を自分たちの手で壊し始めた。留まる理由をなくして、指導者たちを南へ進ませるためだった。レーモンはついに折れ、裸足で町を出て、エルサレムへの道をたどった。
軍はシリアの海岸を南へ下り、1099年7月、エルサレムを落とした(第1回十字軍のエルサレム占領)。そこでもまた、住民の大量の殺戮が起きる。

マアッラの出来事は、アラブの側の記憶に深く刻まれた。北から来た金髪の戦士たちは人を食う、という噂は、シリアの人びとに強い恐怖を植えつけた。この町の名は、その後何世紀も、フランク人の野蛮を語るときに繰り返し持ち出されることになる。
レバノン生まれの作家アミン・マアルーフは、1983年の『アラブが見た十字軍』(物語「『アラブが見た十字軍』で読む十字軍」)で、この町の出来事を本の早い章に置いた。西ヨーロッパでは長く、信仰の英雄たちの冒険として語られてきた十字軍が、攻められた側から見ればどう見えたのか。同じ出来事が、どちらの側の記録から読むかで、まったく違って見える。マアッラは、そのことを最も強く示す例の一つになっている。