バイバルス
概要
キプチャクの草原で捕らえられ、奴隷として売られた。アイン・ジャールートでモンゴルを破り、主君を殺してスルタンになる。17年で十字軍の拠点を次々に落とした。
所属
マムルーク朝関わったできごと(1)
アイン・ジャールートの戦いAD1260年9月3日 · 前衛の指揮本文
1223年ごろ、黒海の北に広がるキプチャク草原で、トルコ系の遊牧民の部族に生まれた。少年時代、西へ押し寄せたモンゴル帝国の軍勢が草原を荒らし(モンゴル帝国の拡大)、彼の部族は逃げ惑った。その混乱の中で彼は捕らえられ、奴隷として売られた。黒海を渡り、アナトリアの奴隷市場を経て、シリアへと転売されていった。

大柄で、色は浅黒く、声が大きかった。片方の目に白い斑点があり、そのために値が下がって、なかなか買い手がつかなかったと伝えられる。最初に彼を買ったのはシリアのハマーの町の人物だったとも、エジプトのアイユーブ朝のある将軍だったともいわれる。のちに彼が名乗った「ブンドゥクダーリー」という名は、その将軍の名に由来する。やがて彼は、アイユーブ朝のスルタン、サーリフの手に渡った。
サーリフは、草原から買い集めた少年たちを軍人として育て、自分の親衛隊にしていた。こうした奴隷出身の軍人をマムルーク(所有された者)と呼ぶ。彼らはイスラームに改宗し、馬術と弓と槍を徹底的に仕込まれ、成人すると解放されて、主君に忠誠を誓う戦士となった。サーリフのマムルークはナイル川の中州に兵営を置いたので、川を意味する言葉からバフリー・マムルークと呼ばれた。
1249年、フランス王ルイ9世が十字軍を率いてエジプトに上陸し、ナイル河口の港町ダミエッタを奪った(第七回十字軍(ダミエッタ))。カイロへ進む途中の町マンスーラで、1250年2月、王弟の率いる騎士たちが町の中に突入した。バイバルスたちマムルークは、狭い路地に騎士たちを誘い込み、四方から襲って討ち取った。続く戦いで十字軍は退路を断たれ、ルイ9世は捕虜になった。

だがこのとき、主君のサーリフはすでに病で死んでいた。後を継いだ息子のトゥーラーン・シャーは、父のマムルークたちを冷遇し、自分の側近を重んじた。1250年5月、マムルークたちは新しいスルタンを殺した。バイバルスもその場にいたとされる。こうしてエジプトでは、奴隷出身の軍人たちが自ら権力を握るマムルーク朝朝が始まった。
その後の数年、マムルークの将軍たちは互いに争った。バイバルスは、仲間の指導者が殺されるとシリアへ逃れ、各地の領主の間を渡り歩いた。その間に、東からモンゴルの大軍が迫っていた。1258年、チンギス・カンの孫フレグがバグダードを落とし、アッバース朝のカリフを殺した(バグダードの陥落)。1260年にはアレッポとダマスクスも落ちた。フレグはカイロのスルタン、クトゥズに、降伏を求める使者を送った。クトゥズは使者を処刑し、戦うことを選んだ。バイバルスは彼と和解し、軍に加わった。

1260年9月、パレスチナのアイン・ジャールート(ゴリアテの泉)で、両軍はぶつかった(アイン・ジャールートの戦い)。フレグ自身は大ハーンの死の知らせを受けて主力を率いて東へ戻っており、残されたモンゴル軍は将軍キトブカが率いていた。前衛を任されたバイバルスは、敵と交戦してはわざと退き、モンゴル軍を丘の陰に待つ本隊の方へ誘い込んだとされる。モンゴル軍は包囲され、キトブカは討たれた。モンゴルが大きな会戦で敗れたのは、これが初めてだった。
勝利のあと、エジプトへ帰る途中で、バイバルスはクトゥズを殺した。アレッポの統治を任せてもらえる約束が守られなかったからだともいわれる。狩りの最中、仲間の将軍たちとともに襲ったのである。将軍たちは、王を殺した者こそ王にふさわしいとして、彼をスルタンに推した。

1260年から17年の治世で、彼はマムルーク朝を地中海東岸の強国に作り上げた。1261年、バグダードを逃れたアッバース家の男をカイロに迎えてカリフに立て、自分の支配に宗教の権威を添えた。北のジョチ・ウルスのハーンと手を結び、同じモンゴルでも敵どうしになっていたフレグのイル・ハン国を挟み撃ちにする形を作った。
そして十字軍国家の城と町を、一つずつ落としていった。1265年にカエサレアとアルスーフ、1266年にサファド、1268年にヤッファとアンティオキア。アンティオキアは170年続いた十字軍の公国の都だったが、町は徹底的に破壊され、住民は殺されるか奴隷にされた。1271年には、難攻不落といわれた騎士団の城クラック・デ・シュヴァリエも降した。アッコンなどわずかな海岸の町を残して、十字軍の領土は細っていった。最後の大きな拠点アッコンが落ちるのは、彼の死から14年後のことである(アッコンの陥落)。

内政では、駅伝の制度を整えた。街道に駅を置き、替え馬を用意して、カイロからダマスクスまで4日で文書が届いたという。伝書鳩の通信網も使った。運河や橋、モスクやマドラサを建て、カイロには彼の名を冠したモスクが今も残る。規律に厳しく、酒を禁じ、各地に密偵を放って臣下の動きを見張った。身分を隠して町を歩き回ったという話も多い。
1277年、アナトリアに遠征してモンゴル軍を破ったのち、7月にダマスクスで死んだ。50代の半ばだった。死因ははっきりしない。他人を毒殺するために用意した馬乳酒の杯を、誤って自分で飲んだという話が伝わっているが、病死とする史料もある。

奴隷から身を起こし、モンゴルと十字軍の両方を退けた彼の生涯は、アラブの民衆の間で英雄物語になった。『バイバルス物語』は、語り部たちによって何百年も語り継がれ、カイロやダマスクスの喫茶店で聞かれ続けた(物語「『アラブが見た十字軍』で読む十字軍」)。